前編から続きます


田園調布学園中等部・高等部、当時の調布女学校のある場所のすぐそばには、「諏訪分駅」がありました。

そこで管理人も周囲を見回して探してみましたが、ありました! 道がまっすぐ伸びている中にある、ちょっと膨らんだ不自然な曲がり道が!



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写っていませんが、写真の右手前が田園調布学園の敷地です


↑の写真の四つ角の右手前は、田園調布学園の敷地ですが、正面の道を御覧下さい。不自然に曲がっているようには見えませんか?


その曲がっている場所に近づいて接写してみましょう。



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確かに緩やかなカーブを描いている!


恐らくですが、この道は新奥沢線開業時からこのようになっていたのではないかと思われます。そして、このように膨らんでいる場所には、新奥沢線の諏訪分駅があったのではないでしょうか。ここなら調布女学校も近いですし、間違いないと思われます。

奥沢親交会のHP によれば、諏訪分駅の周囲にも商店が立ち並んでいたといいますが、現在は完全な住宅街となってしまっていて、そのような面影は全くありません。せめて該当箇所に「諏訪分駅跡」という石碑でも立っていればいいと思うのですが、そんなものはこういった閑静な住宅街にはそぐわないのかもしれません。たぶん、ここの住民の皆様は、かつてこの場所に駅があって、電車が走っていたことなどこれっぽっちもご存じないのでしょうね。奥沢親交会HPに新奥沢線の思い出を寄稿された方も、20年前の平成3(1991)年にお亡くなりになられたそうですので、やはり75年の時の流れの長さと重さに思いを致さざるを得ません。


ここから先は、線路と道路の関係が不明確になっていきますが、管理人はそれでも雪谷を目指して歩いていきます。

途中、世田谷区から大田区への区境界を越え、地名もそれまでの東玉川から雪谷大塚町に変わります。こうなれば、雪が谷大塚駅も近いというもの。

しかし、中原街道に突き当たったときには、雪が谷大塚からかなり外れた場所になってしまいました。新奥沢線は現在の雪が谷大塚駅の石川台寄りから大きなカーブを描いて諏訪分へ分岐していましたので、そりゃ現在の道路とずれてしまっても仕方ありません。



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現在の雪が谷大塚駅


最後には、雪ヶ谷駅の跡に向かってみましょう。中原街道を石川台・五反田方面に進み、踏切のある道へ右折します。

すると、線路沿いに意味不明の空間が! 



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この空間が?


池上電気鉄道の雪ヶ谷駅は、恐らくこの辺りにあったのだろうと思われます。そして、この意味不明な空き地は、新奥沢線の分岐跡だったのではないでしょうか。


↑の空間を、踏切の反対側から眺めてみます。



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上り線と民家の間の空白は?


恐らくですが、この写真の右から正面奥に向かって、新奥沢線のレールが大きなカーブを描き、諏訪分方面へ分かれて行ったのではないかと思われます。

この写真を撮影して、雪が谷バス停から東急バス「蒲12」に乗って田園調布へ行き、東横線に乗って帰りました。


思ったこと。

さすがに廃止から4分の3世紀以上経過してしまっては、痕跡もほとんど残っていないのもある意味では当たり前ともいえるでしょう。それでも、インターネットというのはありがたいもので、折に触れて紹介しているように、奥沢の商店会である「奥沢親交会」のHPに当時のことを記憶しておられる方の一文が、在りし日の新奥沢線を知る数少ないよすがになっているのは、素晴らしいことだと思います。管理人も、あのHPがなければ新奥沢線探訪といっても何の手がかりもないまま行わざるを得なかったので、あのHPには感謝してもしきれません。

それと同時に、もし池上電気鉄道が五島慶太の策略に屈せずに、新奥沢線を国分寺まで建設してしまったとしたら、東京の交通地図は今と全く変わったものになっていたのではないかと思います。しかし実際には、大井町線に行く手を阻まれ、結局盲腸線となってしまい、周囲を他社の路線に取り囲まれて行き場を失ってしまったのです。新奥沢線は、企業同士のバトルの中に巻き込まれ、姿を消していった不遇かつ不運な路線だったといえましょう。その悲劇の一端に触れることができただけでも、今回の探訪の意味があったように思います。


最後になりましたが、今回の探訪には奥沢親交会のHPに多くを負っております。この場において御礼申し上げます。