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皆様は「新奥沢線」という路線を御存知でしょうか?

まだ池上線が「池上電気鉄道」の運営する路線だったころ、この池上電気鉄道が、雪が谷(現在の雪が谷大塚駅からやや石川台寄りにあったらしい)から遠く国分寺を目指し、その路線の第一期開業区間として、昭和3(1928)年に建設・開業させた路線です。

しかし、そのころ既に、東急の前身だった目黒蒲田電鉄の総帥・五島慶太は、この計画を阻止すべく大岡山-二子玉川間の新路線(現大井町線)の建設用地をいち早く確保、新奥沢線は行く手を五島に阻まれ、盲腸線として運営せざるを得なくなります。その後、昭和9(1934)年に池上電気鉄道そのものが目黒蒲田電鉄に吸収合併されてしまい、いよいよ存在意義のなくなった新奥沢線は、翌昭和10(1935)年限りで廃線となってしまいました。

新奥沢線については、以前の「鉄道ピクトリアル」増刊号の東急特集で知り、管理人の自宅から近いこともあって、いつか機会があれば行ってみようと思っていました。そこで今月の13日夕刻に、石碑だけ見てきたのですが(冒頭の写真)、雪谷方面への探索はしないままでした。その探索を、19日に行ってまいりましたので、その成果をアップいたします。よろしくお付き合いのほどをm(__)m


奥沢駅改札口から自由通りを雪谷方面に進むと、数十mほどで右横に分かれる商店街の道があります。そこを延々と進み、商店街が途切れたところで環八側に数十m進むと、「新奥沢駅跡」の石碑が建っています。場所は、東京都世田谷区東玉川2-40です。奥沢駅からだと、歩いて7~8分くらいでしょうか。



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この写真の正面に新奥沢駅の駅舎があった


奥沢親交会(奥沢の商店街)のHP によれば、床屋や材木屋、米屋、酒屋などが駅前に立地しており、そこそこの賑わいがあったと思われますが、これも全て、新奥沢駅開業による乗客を当て込んでのことだったようです。

現在は、↑の写真の向かい側に材木屋さんがあって、当時の面影があるような気がしますが、その他にあったであろう商店は、ほとんど面影がありません。そりゃ当然ですよね。だって廃止になってから4分の3世紀が経過しているんですから。


ちなみに、この道路には、二子玉川園駅(当時)と大森駅を結ぶ東急バス「森09」が通っており、この新奥沢駅跡近辺には「奥沢駅通り」というバス停がありました。「森09」も昭和56(1981)年に廃止され、その後は品川駅-丸子橋間の「品90」(これもかつては『東90』として、都営バスと共同運行で東京駅まで達していた路線)が中延営業所の廃止により瀬田営業所に持ち替えられた際、その出入庫系統が通っていましたが、それも平成元(1989)年3月限りで廃止されています。自由通りには、かつて渋谷から大森まで達していた長距離系統「渋33」が通っていましたが、昭和56(1981)年に丸子橋までに短縮され、その後は多摩川園(現多摩川駅)まで延伸された代わり、一部を残して国立病院東京医療センター折り返しとなり、本数も1時間当たり1~2本と極めて少なく、使いやすいものではなくなってしまいました。


さあ、雪谷目指して歩いてみましょう。

新奥沢線が通っていた現在の東玉川地区は、区画整理がなされているためか、道路が碁盤の目状になっていて、よそ者にも分かりやすくなっています。


環八と自由通りに平行している、住宅街の中の一方通行の道を延々と歩きますが、往年の新奥沢線の電車も、こんな直線をのんびりと走っていたんでしょうか。

以下、まっすぐに伸びる道を2点ノーキャプションでどうぞ。



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いかがでしょうか。

かつての新奥沢線は、国分寺までの延伸を前提に、複線分の用地を取得していたそうです。その用地取得には、当時の諏訪分、現在の東玉川地区の耕地整理組合などが全面的に協力し、用地の取得や線路の敷設はきわめてスムーズに進んだとのこと。当時、現在の東玉川や田園調布地区には軌道系交通機関が存在しなかったため、その誘致が強力な動機付けになったとのことです。


しかし。

現在のこのあたりは、東京でも有数の閑静な住宅街となっています。このあたりの住民の自家用車保有率は極めて高いようで、しかもBMWやアウディ、エルグランドなどそれなりに値の張る車ばかり。こういう光景を見ると、おぼろげながらこのあたりの住民の所得水準のようなものが推し量れるような気がします。

それはおくとしても、これだけ自家用車があれば、そりゃバスが1時間に1~2本くらいしかなくとも、文句は出ないわけです。また徒歩でも、奥沢へも雪が谷大塚へも10分前後で到達できるので、仮に自家用車がなくとも困らないんですね。バスの利用が少なくなるのも当たり前だという気すらしてきます。


しばらく行くと、大きな学校が見えてきます。これが田園調布学園中等部・高等部、かつての調布女学校です。

新奥沢線の唯一の中間駅だった「諏訪分」は、調布女学校の生徒が「お得意さん」だったとのことなので、この学校のすぐ近くに諏訪分駅があったことは容易に分かります。



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現在は要塞のような立派な建物が建っている


↑の写真の左奥に、不自然な膨らみを持った曲がりがあるのですが、そこがかつての「諏訪分駅」の跡ではないかと思われます。


前記の奥沢親交会のHPによれば、諏訪分駅はほとんど女学校の専用駅と化していたそうですが、これは、当時の田園調布学園が女子校であったことによるものです。

田園調布学園中等部・高等部のHP (※)を見ると、アクセスは「東急東横線又は目黒線 田園調布駅下車 徒歩8分」もしくは「東急池上線雪が谷大塚駅下車徒歩10分」となっています。この両駅から徒歩10分以内で到達できるので、新奥沢線がなくとも誰も困らないんですね。


※ 余談

田園調布学園のHPで「交通アクセス」の項目を見たら、「登校時間のめやす」という形で、近隣の主要駅の時刻(この時間の列車に乗れば朝の出席点呼には間に合う旨)を記載しているんですね。これには驚きました。


長くなりましたので、続きます


※ 投稿日を02/19とします。