その1(№1702.)から続く


伊豆急行が、開業に当たって用意した電車は、窓が大きく明朗な車両で、いかにも海辺のリゾート地へ向かう列車としてふさわしい内外装を有していました。

この電車は「100系」といわれ、電動車(両運転台のモハ100、片運転台のモハ110、中間電動車のモハ140)と制御車(クハ150)、付随車(サハ170)が作られました。窓を大きくとり、両端に片開きの扉を配し、車端部をロングシートにした以外は、ゆったりしたクロスシートが配されました。このような座席のレイアウトは、同時期に登場した東武の長距離用電車6000系とよく似たものでしたが、乗り入れ相手の国鉄を見た場合、153系と113系の中間を狙った車両とも言えました。

そしてこの電車の外部塗色ですが、上半分を白っぽい緑色(オーシャングリーン)、下半分を水色(ハワイアンブルー)のツートンとし、その2色の間をシルバーの帯が通るという、当時としても極めて明るい配色となっています。そして、大きな窓とも相まって車内からの眺望も抜群であり、伊豆半島の美しい海岸線を眺めるには好適な車両でもありました。


ところで、前回触れたとおり、路線としての伊豆急行の開業は昭和36(1961)年12月ですが、当然のことながら、100系はそれ以前に相当数が揃えられています。そしてこれまた当然のことながら、100系の試運転などをしなければいけませんが、その試運転は何と、東急東横線で行われていました。100系は、現在は廃線となってしまった桜木町まで顔を出し、京浜東北線の旧型国電と並んだこともあります(鉄道雑誌に当時の写真がある)。

当時の東横線は、ステンレスカーは入り始めたもののまだ少数派で、初代5000系「青ガエル」の天下だったころ。もちろん、戦前派の3450形や戦災復旧車の3600系も東横線で多数活躍していたころです。これら3000系列の塗色は、青ガエルの明るい緑とは異なり、紺と山吹色のツートンで、どちらかといえば重厚なカラーリングです。

そのような中に、白っぽい緑色と鮮やかな水色の鮮烈なツートンカラーが現れたのですから、そのインパクトたるや絶大なものがあったことは、想像に難くありません。等級船内での100系の試運転は、伊豆での新しい路線の開通について、これ以上ないくらいの宣伝効果を発揮したといえます(実際、窓に『伊豆急行開業』と記した紙を貼って東横線を運転していた写真がある)。

東急の20m車といえば、昭和44(1969)年に登場した8000系ですが、これはあくまで「営業車として初」。8000系登場の8年前、既に東横線を20m車が走っていたことになります。余談ですが、実は東横線には100系以前にも20m車が走ったことがあります(元国電モハ60形の戦災復旧車)。この話はネコ・パブリッシング刊の「東急碑文谷工場ものがたり」に出てきますが、当時の東横線では使いこなすことができず、相鉄へ送られたとのことです。


閑話休題。

100系のもうひとつの特徴は、国鉄以外では戦後初となる(※1)優等車が存在したことです。これは、伊東線では必ず1等車(→グリーン車)を用意していたためで、国鉄と相互乗り入れをする関係から、100系にも1等車が用意されました(サロハ180・サロ180)。優等車が用意されたのは、沿線に別荘地があったことから、需要が見込めると判断した結果でもあります。

さらに100系が凄いのは、やはり国鉄以外では戦後初(※2)となる食堂車が登場したことです(サシ190形)。この車両は昭和38(1963)年、ビールメーカーが自社製品の宣伝(今で言う販促活動)のために、同メーカーがスポンサーとなって投入されたもので、国鉄の食堂車のような本格的な料理を供するものではなく、生ビールと簡単なつまみ類を提供するものでした。この車両は「スコールカー」と名づけられ、大変な評判になったのですが、当時の国鉄が熱海乗り入れを認めなかったため運用効率が極めて悪くなってしまい、本来の用途に供されたのは僅かの間で、比較的短時間で編成から外され、伊豆稲取の留置線などで「放置プレイ」にされる不遇を託っていました。そして昭和49(1974)年、普通車に改造されています(サハ191号)。


※1=南海鉄道(→南海電鉄)など、創業期には優等車が存在した私鉄もあった。
※2=南海鉄道の「電7形」で有名な通称「クイシニ」など。


伊豆急行はほぼ伊豆の海岸線に沿って走る線形のため、伊豆半島沿岸の海水浴場が一気に東京・横浜に近くなりました。当時、東急では田園都市線溝ノ口(当時)-長津田-中央林間間の延伸(※3)計画が具体化しつつあり、中央林間では小田急江ノ島線と接続することから、「小田急線と直通すれば乗り換えなしで江ノ島へ海水浴に行ける」という記事が、当時の新聞に掲載されていました(鉄道ピクトリアル2004年増刊東急特集)。海水浴場に乗り換えなしで行けるかどうかが、鉄道の利便性を測るバロメーターだった時代が、確かに存在したわけです。これは現在の感覚からすると信じがたく、かつ理解しがたいことですが、当時の海水浴がいかに人口に膾炙したレジャーであったかということは、容易に理解することができます。それだけ、当時は娯楽やレジャーといったものの選択肢が少なかったのかもしれません。


※3=東急は昭和38(1963)年、大井町-溝ノ口間の路線名称をそれまでの大井町線から「田園都市線」に変更している。また、「溝ノ口」の駅名は昭和41(1966)年1月、現在の「溝の口」に改称されている。その後昭和54(1979)年8月12日の運転系統変更(長津田方面からの電車が、大井町方面ではなく渋谷方面へ向かうようになり、大井町-二子玉川園(当時)間は切り離された)に伴い、大井町-二子玉川園(同)間の名称を「大井町線」に戻している。「二子玉川園」は平成12(2000)年8月に「二子玉川」と改称。


ともあれ、伊豆の魅力的な海水浴場が東京や横浜から近くなったということで、夏期を中心に利用者が集中するようになります。もちろん、海岸沿いの温泉も行きやすくなりましたから、季節を問わず多くの利用を集めましたが、やはり海水浴シーズンの夏場が突出していました。

100系も、そのような「海水浴特需」に歩調を合わせる形で増備が続けられ、最終的には昭和47(1972)年までに総勢53両が出揃い、伊豆への行楽客や地元利用者を運び続けました。さらに昭和45(1970)年と48(1973)年には、半室1等車→半室グリーン車だったサロハ180形2両が2両とも全室普通室に改造され(サハ170形に編入)、グリーン車は全て全室型のサロ180のみになりました(国鉄は昭和44(1969)年5月10日、それまでの等級制を廃止して現行の料金制度に切り替えたが、伊豆急もそれに歩調を合わせる形で、同時期に1等車をグリーン車に変更した)。


このようにして、伊豆急行の利用は伸びていきましたが、当時の海水浴客の集中は凄まじく、伊豆急行でも自社車両の100系、あるいは国鉄から乗り入れてくる113系や153系などだけでは、押し寄せる海水浴客を捌ききれず、車両数そのものの不足を来たすことになってしまいました。

そこで、伊豆急行は、親会社の東急から「助っ人」を頼むことになるのですが、次回はその「助っ人」列伝を取り上げます。


その3(№1721.)に続く