皆様、改めまして新年明けましておめでとうございますm(__)m

今回から全13回(予定)にわたり、伊豆急の50年の歴史を回顧する「Into the Hawaiian-BLUE」の連載を開始いたしますので、よろしくお付き合いの程をm(__)m 1月11日にアップするといっておきながら、1日遅れのアップとなったことは平に御容赦をm(__)m

なお、連載の進行に伴って回数が増減することがありえますが、それは当ブログの「仕様」ということで御容赦下さい。


通称「伊豆急」といわれる伊豆急行線が開業したのが、今からちょうど50年前の昭和36(1961)年12月10日です。この日、伊東-伊豆急下田間が一気に開業し、同時に国鉄(当時)伊東線との相互直通運転を開始、国鉄から多くの列車が直通しました。

静岡県の下田といえば、嘉永7(1853)年にペリーが来航し、1年後の日米和親条約、5年後の日米修好通商条約の締結など、日本開国の端緒となった場所ですが、戦前は鉄道が通じることはなく、下田へのルートは修善寺から天城街道を下って天城峠を越えるのがオーソドックスなものでした(川端康成の『伊豆の踊子』も当時の状況がよくわかる作品)。

では下田への鉄道の計画が全くなかったかといえば、もちろんそんなことはなく、鉄道建設の予定線として熱海-伊東-下田間が計画されていました。

しかし、熱海-伊東間は国有鉄道の路線として昭和10(1935)年3月に熱海-網代間、13(1938)年12月に網代-伊東間が開業するのですが、戦前の段階では工事はそこでストップしてしまいます。その理由は、時の政府が今で言う「財政健全化」のために緊縮財政路線を取ったためで、伊東以遠の建設は沙汰止みになってしまいました。もっとも、伊東まで達した昭和13年の段階では、国力の全てを戦争へ振り向ける体制が敷かれたため(国家総動員法の成立など)、その時点で下田への延長は潰えたとみて差し支えないのでしょう。


下田への延長計画が再燃するのは戦後になってからですが、国鉄は自らの手で延伸するということをしませんでした。そこで、昭和31(1956)年2月、当時の東急の総帥・五島慶太が伊東-下田間に地方鉄道の敷設免許を当局に申請します。

これを知った西武の総帥・堤康二朗は、地元の有力者に働きかけ、伊東-下田間の建設を国鉄に働きかけます。しかし、その働きかけも功を奏さなかったため、堤は、当時既に三島-修善寺間に鉄道路線を持っていた伊豆箱根鉄道に同区間の免許を申請させました。しかし、伊豆箱根鉄道の申請は、急ごしらえだったためかかなりの点で不備があったらしく、そのためか当局は伊豆箱根鉄道には免許を下ろしませんでした。

結局、免許が下りたのは東急側でしたが、この免許にはいくつかの条件がありました。それは、「国鉄から買収を求められた際には必ず応じること」「国鉄に準じた規格で建設すること」といったものです。これらの条件は、伊東-下田間がもともと国鉄の計画路線でしたから、当然といえば当然なのですが、やはり東京方面からの国鉄の直通列車運転の便宜を図っておく必要もあったのでしょう。

免許は昭和34(1959)年に下り、同じ年に東急は「伊東下田電気鉄道株式会社」を設立し、実際の路線の建設・運営はこの会社に任せることにします。その後、「伊東下田電気鉄道株式会社」は「伊豆急行株式会社」に変更され、現在まで続くことになります。


このようにして、東急側に免許が下りたわけですが、この結果に西武側が黙っているわけはありません。西武側は、伊東-下田間で経由地になりそうなところの土地を押さえるという荒業に出ています。具体的には、下田の白浜地区の土地を西武側が買い占め、路線を通さないようにしてしまいました。現在、この地には西武系のホテルが建っていますが、このあおりを受け、現在の伊豆急の路線は、河津から海岸線を離れて山側に向かうようになっています(当初は河津から下田まで海岸沿いを通す予定だった)。

以上が世に言う「伊豆戦争」の顛末ですが、西武は小田急とも、箱根の観光開発をめぐるバトルを展開しています(箱根山戦争)。

「伊豆戦争」について付け加えれば、争いは鉄道以外にも広がりました。もともと伊豆半島では東海自動車がほぼ唯一の公共交通機関でしたが、東急が東海自動車の株式を取得して、今で言うM&Aを仕掛けようとしたこともあります。これに対して西武側は、下田市のバス会社だった昭和乗合自動車を買収し、「伊豆下田バス」として運行するようになり、東海自動車のほぼ独擅場だったエリアに楔を打ち込むことになりました。

他方で、東海自動車は、東急(五島)にも西武(堤)にも与しようとせず、独自の路線を歩んできましたが、東海自動車自身伊豆急の開業で大打撃を受け、伊豆急線開業10年後の昭和46(1971)年、小田急グループの傘下に収まっています。


東急の免許取得の翌年、すぐに工事が始まりましたが、その工事には難渋を極めたようです。伊豆半島の東岸は山がすぐ海に迫っているような地形で、平地が少なかったためにルート選定に苦慮したこともそうなのですが、もうひとつ、もっと重大な問題がありました。それは、伊豆半島の地質です。

そもそも、日本列島そのものが火山帯の上に乗っかっている形なので、山の中でも海岸でも、それこそ都会のど真ん中でも、1000mも掘れば必ず温泉が出てくるものだそうですが(あくまで可能性ないし掘削技術の問題。もちろんコスト的に引き合うかはまた別の話)、伊豆半島東岸には温泉の泉源が点在していて、トンネル工事の際に源泉に偶然遭遇し、それが引き金となって落盤事故を起こす例も多く、多数の作業員が犠牲になったとのことです。また、前述した伊豆半島東岸の地形ゆえに、トンネルで貫く線形となったことも、難工事になった大きな理由でした。

それでも建設そのものは驚異的なペースで続けられ、着工後2年もしないうちに、伊東-伊豆急下田間の全線が一気に開業しました。当時の新線工事は、営団地下鉄(当時)日比谷線が昭和34(1959)年の着工から僅か5年後に全線開通するなど、現在に比べてピッチが早かったように思います。最近の事例で言うと、半蔵門線の水天宮前-押上間の着工は平成5(1993)年ですが、開業はそのちょうど10年後の平成15(2003)年ですし、阪神なんば線の西九条-難波間も平成15(2003)年着工、同21(2009)年開業と6年の月日を費やしています。半蔵門線の延伸区間は都内屈指の軟弱地盤を持つエリアですし、阪神なんば線も沿線の環境問題などがあり、またこれら両線に限らず、当時以上に現在では環境問題に対する配慮が要求されるので、一概には比べることはできないのですが、それでも現在の基準で見れば驚異的なハイペースだと思います。


ともあれ、昭和36(1961)年12月、下田への鉄路が完成し、国鉄から直通列車が乗り入れるようになりました。


次回は、伊豆急が用意した自前の車両、あの「ハワイアンブルーの風」100系について、その来歴とスペックを取り上げます。


その2(№1711.)に続く