その1(№1477.)から続く


昭和20(1945)年8月、日本が終戦を迎えると「大東急」についても解体・再分離の動きが出るようになってきました。出自も企業風土も違う4つの会社が合併したのは、戦時体制を乗り切るためという大義名分があったればこそで、そもそも無理があったことは事実。終戦とともにそのような動きが出たのは、むしろ必然といえます。

昭和22(1947)年8月、当時の東京急行電鉄の社長が「大東急」の解体を発表し、翌昭和23(1948)年6月1日付で「新生・小田急電鉄」が誕生しました。このとき、現在の京急・東急・京王・小田急の路線網の原型が形作られたわけですが、井の頭線は「帝都電鉄」として小田急の傘下に入っていたのに、「大東急」解体に際しては京王が運営することになり、京王帝都電鉄(当時)の路線となっています。これは、当時の京王の路線網が大手私鉄の中で最小であり、経営基盤があまりにも脆弱なため、経営安定に配慮するために井の頭線を京王に所属させたものです。したがって、このときまで井の頭線と京王は全くの無関係でした。


新宿-小田原間の特急列車の運転は、「新生・小田急」が発足した昭和23(1948)年の10月16日から、週末を中心に行われるようになりました。これは戦前に運転されていた「週末温泉急行」の復活といえますが、今回は「急行」ではなく「特別急行」。しかも「特別急行料金」を設定・徴収する列車としては初ということになります。

ただし、車両はクロスシート車ではなく、ロングシートの通勤車1600形でした。それでも、「復興整備車」の看板を掲げ、座席には純白のシーツを敷き、敗戦のダメージが残る中で精一杯の整備がなされ、小田原・箱根への観光・湯治客をいざないました。


大手私鉄では、近鉄がこの1年前の10月、現在の東武の「TJライナー」や京急の「ウイング号」のシステムに近い、定員制の特急列車の運転を開始していますが、関東大手私鉄では小田急が戦後で最初に特急の運転を開始しています。


昭和23年といえば、戦争の傷跡がまだ色濃く残っていた時期で、沿線もそうだったでしょう。そのような中で、通勤車とはいえこのような列車が運転されたことで、小田急の職員や沿線住民にとっての「復興の希望の灯」となり得たことは、想像に難くありません。会社としての小田急も、大いに士気が上がったことと思います。

そして翌昭和24(1949)年、小田急初の特急用車両として1910形が登場し、ロングシートの1600形を置き換えていきます。この電車は、終戦後に当時の運輸省が音頭を取って、基本設計を共通化して各私鉄に低コストで投入することを容易にした「運輸省企画型電車」だったのですが、それでも2ドアセミクロスシートと、長距離用としての面目を整えての登場となりました。

この車両で特筆されるのは、中間車のサハ1960形に喫茶カウンターを設け、軽食・茶菓の提供を行ったことです。これはいうまでもなく、小田急ロマンスカーを全国的に著名にした「走る喫茶室」の嚆矢といえるもので、1910形の功績はそこにこそあるのでしょう。

ただし、当時は輸送力が逼迫していたため、1910形といえども朝晩のラッシュ時は通勤輸送に駆り出されたりしていました。


そして昭和25(1950)年8月には、箱根地区の念願だった、小田急の電車の箱根湯本直通が実現します。これは前回も触れましたが、小田原-箱根湯本間を三線軌条として、狭軌の小田急車両の乗り入れを可能にしたものですが、この乗り入れの実現によって、箱根へのアクセスが飛躍的に改善され、後々のロマンスカーの飛躍の礎ともなりました。

ちなみに、小田原以西は「箱根登山鉄道」で、既に戦前期に現在の路線の原型は出来上がっていました。このころから箱根湯本乗り入れを望んでいた地元の声があったのは前回触れたとおりですが、ではそれがなぜ戦後に実現したかについては、戦後の「大東急」解体に伴って、箱根登山鉄道が小田急の傘下に入ったことを指摘しておくべきでしょう。つまり、箱根登山が小田急の系列会社になったからこそ、この乗り入れが実現したということです。

さらに付言すれば、小田急の箱根湯本乗り入れの実現以後、小田急(と東急。というかその創始者、というかその背後にいる五島慶太)は箱根の観光開発を強力に進めていきますが、そこに西武(堤康二郎)も観光開発を手掛けようとして小田急と衝突、両者の間で箱根の観光開発を巡って壮絶なバトルが展開されました。このバトルは、巨大企業同士の衝突があまりにも激烈だったことから、「箱根山戦争」と俗称されています。この「箱根山戦争」は、東急vs西武の伊豆の観光開発を巡る一大バトルであった「伊豆戦争」と並び称される企業間の衝突で、後にこのバトルを題材にした経済小説「箱根山」が発表され、その後映画化もされました。


余談。

現在は少子高齢化に伴う鉄道輸送需要のパイの縮小が見込まれるためか、西武沿線でも小田急の「箱根フリーきっぷ」を売ったりして、西武は小田急との協力体制を強めています。また西武は東急との間でも、東急から伊豆急に行った8000系の座席を提供したり(あの座席はリニューアル前の西武10000系のもの)、西武車両の製造・更新改造などを東急車輛で請け負うようになったりするなど、関係改善が顕著になっています。さらに西武は、2年後に東急東横線と地下鉄副都心線を介して相互直通運転を行う予定で、このときこそが歴史に残る「箱根山戦争」及び「伊豆戦争」が完全に終結するときなのでしょう。


このようにして、小田急の特急は徐々に有料優等列車としての体裁を整えていきますが、やはり2ドアセミクロスシートの1910形では、有料優等列車として中途半端という評価が下されるようになりました。このような声が上がることは、それだけ世の中が落ち着いてきたことの証左でもあるのですが、現実に昭和25(1950)年になると、朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争により日本の工業生産量などが増加し(朝鮮特需)、これがカンフル剤のひとつとなり、日本の経済力が回復していくきっかけとなります。さらに昭和26(1951)年には、サンフランシスコ講和条約の調印により、日本が対外的にも独立を回復し(発効は翌年の4月28日)、占領体制からの脱却が図られるようになります。

そのような動きに呼応するかのように、他社でも新しい特急用車両の導入が目立つようになります。それが東武の5700系や近鉄の2250系などですが、小田急でもそれまでと異なり、一般列車への充当を一切考えない、純粋な特急用車両を世に出すことになります。

これが著名な1700形ですが、次回はそのお話を。


その3(№1513.)に続く


※ 当記事は都合により昨日08/24付でのアップとしております。