先週までの京成ネタとはガラリと変わり、今度は温泉への観光列車です。

その列車を運転している会社といえば、小田急電鉄ですね。


小田急といえば、さまざまなロマンスカーが覇を競っていることで、鉄道愛好家のみならず、箱根へ向かう観光客や沿線住民からも根強い人気を誇っています。現役最古参のLSE7000形、ハイデッカー構造のHiSE10000形、新鋭VSE50000形は小田急ロマンスカーの展望構造を堅持していますし、ダブルデッカー構造で豪華さが売りのRSE20000形、高級ホテルを意識した内外装のEXE30000形、さらには地下鉄に乗り入れるMSE60000形と、まさに百花繚乱の観があります。

彼女たちの「先祖」といえるものは、昭和10(1935)年に運転を開始した、新宿-小田原間ノンストップの「週末温泉急行」といえますが、その列車が運転を開始してから、今年で4分の3世紀、実に75年が経過したことになります。

実は3年前、SE車登場50周年を祝してロマンスカーの歴史回顧の連載を構想していたのですが、諸事情により見送りました。今年は2010年であり、SE車の登場からは53年で、いささか切りの悪い年数ではありますが、「週末温泉準急」登場後75年、LSE登場30年などと、それなりの節目の年とは言えると思いますので、今年2010年にこのテーマでの連載記事をアップするのも、意義のあることと考えています。


前置きが長くなりましたが、以上の次第で、今回から小田急のロマンスカーの歴史を回顧するシリーズとなりますので、何とぞお付き合いの程をm(__)m


小田急(当時の社名は小田原急行鉄道)は、昭和2(1927)年4月に新宿-小田原間を一挙に開通させ(小田原線)、さらにその2年後、昭和4(1929)年4月には相模大野-片瀬江ノ島間の江ノ島線を、これも一挙に開通させ、僅か2年で多摩線以外の現在の小田急の路線の骨格が出来上がっています。しかも、小田原線は最小曲線半径200m、最急勾配25‰と将来的な高速運転に対応した線形になっていることは大きな特徴でした。このころ、新京阪は京阪間の高速運転や名古屋への長距離運転(これは実現せず)を目論んで、高速走行に適した路線(現在の阪急京都本線)を昭和3(1928)年に開通させますが、このころは東西で高速電車の運転の機運が盛り上がっていたのでしょうか。

ただし、小田急が当時の新京阪と違うのは、投入された車両が特に高速化に配慮されていたわけではないようにみえたことです(モハ1形とよばれる中型・2扉の車両)。また、急行列車の運転は開業した年の10月から早くも始まっていますが、単に速達列車というだけで、必ずしも観光客をターゲットにしたものではありません。つまり、「週末温泉急行」のような列車は、開業後すぐに運転が始まったわけではないようなのです。この理由は、昭和初期に日本中をどん底に落とした「昭和恐慌」の余波で小田急線の利用者数が伸びず、それ故に物見遊山客相手の列車の運転など憚られるような土壌が、企業としての小田急の内部にあったのかもしれません。

とはいえ、小田急小田原線の開業は、箱根の温泉街にとっては朗報だったようで、小田原線開業の僅か1年後、昭和3(1928)年には、湯本町(現箱根町)の5町村長他が小田急の箱根湯本乗り入れを鉄道省に陳情します。これが現在まで続いている箱根登山鉄道への乗り入れですが、戦前には実現していませんでした。実現するのは終戦の5年後、昭和25(1950)年8月のことでした。このときには、標準軌だった箱根登山線のレールの内側にもう1本レールを敷設し、狭軌の小田急車両の乗り入れに対応させています。


そうした小田急に対する世間的な注目度の高さを裏書きするものとして、映画「東京行進曲」にも言及しておかなければならないでしょう。

「週末温泉急行」運転開始の6年前、昭和4(1929)年、「東京行進曲」という映画が制作され、同名の曲も発売されました(我が国の映画主題歌の第一号)。レコードは25万枚を売り上げたそうですが、現在の感覚では恐らくミリオンに近いヒットだったでしょう。なぜなら、当時はインターネットもテレビもなく、宣伝手段が新聞・雑誌と当時新興メディアだったラジオくらいのもので、情報の伝達スピードには雲泥の差があったはずですが、にもかかわらず25万枚を売り上げたというのは大変な数字といえるからです。


映画や楽曲のヒットと小田急と何の関係があるんだよ、とおっしゃる方もあろうかと思いますが、これは歌の歌詞を出さないと話が先に進みません。

実はこの歌には、4番に「いっそのこと小田急で逃げようか」(←正確に書こうと思えば書けますが、著作権法に引っかかりますのでこの程度で御容赦を)というような歌詞があります。この歌詞から、「小田急(おだきゅ)る」という言葉が当時の若者たちの間で流行し、それを知った小田急の重役がレコード会社に「『東京行進曲』の制作責任者を出せ!」と怒鳴り込んできたそうです。なぜかというと、当時はまだ小田急は通称で、「小田原急行鉄道」が正式名称でしたので、社名を略称されたのに加え「駆け落ち電車」というふしだらなイメージをつけるとは何事だ(当時は貞操観念が現在よりも厳しく、駆け落ちは御法度だったが、この歌の歌詞は駆け落ちを連想させるものだった)、ということです。

この話には後日談があり、後に社名が正式に小田急電鉄に改称された際、「会社の宣伝になった」ということに感謝し、この歌の作詞者である西條八十は、小田急電鉄から「永久全線無料パス」を支給されたという逸話があります。何だか、西島三重子の「池上線」という歌と東急電鉄の関係を見る感じがしますね。


ところで「週末温泉急行」とはどんな列車だったかという興味が湧くところですが、この列車には一般車とはいえ特別に整備した車両を用い、何とレコードによる沿線案内まであったようです。しかもそのレコードの声の主は、当時の演劇・娯楽の殿堂だった「ムーランルージュ新宿座」(現存せず)の看板女優、明日待子の声だったそうです。

さしずめ現在なら、劇団四季などメジャー劇団の看板女優か、あるいはAKB48の看板メンバーが音声案内をするようなものでしょうか。以前に「ゆりかもめ」で、次駅到着案内などを沿線にあるフジテレビの人気女性アナウンサーが行っていたことがありましたが、あれと同じような発想なのでしょう。この列車は大変な評判になったようです。


しかし、このような楽しい列車も戦争の激化には逆らえず、運転開始7年後の昭和17(1942)年、この列車の運転は取りやめられてしまいます。

そしてその年の5月、小田原急行鉄道は京浜電気鉄道(現京急)とともに東京横浜電鉄に吸収合併され、「東京急行電鉄」となります(大東急)。当時の「大東急」の総帥は東急の創始者・五島慶太でしたが、既に昭和14(1939)年の段階で、小田急の創業者・利光鶴松が五島を取締役に迎えていたため、合併は極めて友好的に行われたそうです。


「週末温泉急行」のような行楽色の強い列車の復活は、戦争の終了とその後の国内の落ち着きを待たざるを得ませんでした。


※ 文中敬称略


その2(№1499.)へ続く