その12(№1314.)から続く


前回も触れましたが、1980年代は国鉄の財政が危機的な状況に陥り、新製車投入などの設備投資もままならない状況に陥りました。

このころ、113系など初期の新性能車の老朽化が問題になってきましたが、特にグリーン車、中でもサロ110の老朽化に対する対策は喫緊の課題でした。それというのもサロ110はもとが153系の優等車・サロ153であり、本来の113系よりも車齢が高かったからです。


しかし、代替車両を新造するだけの余裕は、当時の国鉄にはない。


そこで考えられたのは、当時短編成化によって余剰となっていた、特急型車両のグリーン車を転用改造し、113系編成に組み込むことでした。その第一陣は昭和58(1983)年、当時の静岡運転所に2両配属されました。

この2両は、181系のグリーン車の格下げ改造車と、急行型電車サハ165のボックス席を取り払って簡易リクライニングシートを並べた、世にも珍しい「格上げ改造車」でした。後者は113系と変わらない車体断面のため、編成に組み込まれてもそれほどの違和感は感じませんでしたが、181系の改造車は強烈でした。併結相手の113系とは、車体断面も屋根高さも違うのですから、そのような車両が湘南色に塗られて113系編成に組み込まれても、これ以上はないという凸凹編成でした。

その後、特急型車両の改造車は、種車をサロ481・489に求められ、さらには上越新幹線開業により余剰になっていたサロ183(実際には房総地区への転用を見越し、上越新幹線開業と同時に幕張に移されたものの、その後の需要予測で実際には連結されることなく放置プレイ状態になっていたもの)までも種車とし、多彩な改造車が世に出ています。変わり種としては、急行用のサロ165を改造した車両まで現れ、これは先に消滅していたサロ112(サロ152の改造)の再来の感がありました。


ただ、これら特急・急行用のグリーン車を転用改造した車両は、内装までは改めておらず、特急・急行時代のフルリクライニングシートのままでした。これは、いうまでもなく改造費を節減し「やっつけ改造」を行った結果ですが、生粋の113系のグリーン車の座席定員が60~64名だったのに対し、48~52名しかなく、その点で毀誉褒貶があったようです。このあたりは、過去のサロ113の反省を生かそうとはしなかったんでしょうかね?


ところで、JR発足の前後は、バブルといわれる空前の好景気でした。その好景気の波に乗ったのか、東海道・横須賀両線におけるグリーン車の需要が伸びていきます。そうなると、グリーン車の座席を増やす必要に迫られますが、グリーン車の単純な増結はできない相談でした。なぜなら、もしグリーン車を1編成3両としてしまうと普通車の輸送力が1両分減ることになりますし、また当時はラッシュ時と閑散時の需要の落差が大きかったことからも、グリーン車の3両連結は非現実的でした。

ならば、編成両数を増やさず、座席定員を増やすしかありませんが、そこでJR東日本が出した結論は、「2階建て構造の採用」でした。在来線は新幹線に比べて車両限界が狭く、しかも上面が円弧を描いているため制約が大きかったのですが、当時の大船工場がモックアップをつくるなどして設計上の難点を克服していき、遂に平成元(1989)年、在来線初の2階建て車両がお目見えします。

この車両は東海道線の113系編成にまず組み込まれ、4号車のサロ110-1200とコンビを組んで5号車に連結されました。車端部にトイレを配置した車両(サロ125)と車掌室を配置した車両(サロ124)の2種類が登場し、前者は方向転換して使用されました。これは、将来的にサロ124とサロ125が2両でユニットを組むための構成を前提としたものでしたが、113系への組み込みが暫定的だったことから、このようにしたものです。その後、これらの車両は、113系編成置き換えと同時に編成から抜かれ、211系編成に組み込まれています。

2階建てグリーン車は、211系編成にも組み込まれました。平屋のサロ210(車掌室つき)・サロ211(トイレつき)とユニットを組むサロ212(車掌室つき)・サロ213(トイレつき)が現れ、平屋の車両と2階建ての車両がそれぞれ4・5号車に来るように配置されています。


これら2階建て車両の座席定員は、サロ110-1200の実に1.5倍にあたる90人となり、この車両を1両に組み込むだけで30人もの定員増となりました。この時点では、2階建て2両とするのは時期尚早だと判断されたのか、211系編成の完全新造車の編成以外は登場していません。


平屋グリーン車ばかりだった横須賀線にも、サロ124が数両配属され(当時の配属先は大船だったと思う)、113系編成に組み込まれました。横須賀線向けの車両は、形式は同じでも帯の入り方(東海道線向けは、車端部は窓下に帯が入り、それが車体中央部の1階と2階の窓の間につながるように段を描いているのに対し、横須賀線向けの車両は太い帯が車体中央部の1階と2階の窓の間を貫き、それが車端部の窓まで及んでいる)が異なることと、2階席に荷物置き場を設けたため座席定員が東海道線向けよりも4名少なくなっていたことが異なっていました。荷物置き場の設置は、言うまでもなく成田空港を利用する海外旅行客を考慮したものですが、113系の総武快速が成田空港ターミナルビル直下の新駅に乗り入れるのは平成3(1991)年3月のことですので、サロ113とは異なり、きちんと本来の任務に就いたことになります。

なお、横須賀線用車両は、後の東海道線への転用に際し、荷物置き場を撤去して座席を儲け、在来車と仕様を合わせていますが、帯の入り方だけはどういうわけか修正されず、湘南カラーになって211系編成に組み込まれた現在も横須賀線当時の入り方のままで、各車の出自を見分けることができます。


ことほどさように多種多様な改造車が現れ、愛好家の趣味的興味の対象となった特急・急行用グリーン車を転用した車両も、特急・急行時代に過酷な運用をこなしていたことによる老朽化の進行や、座席定員がそのままだったことによる収容力の小ささなどが仇になり、平成4(1992)年ころから、徐々に姿を消し始めます。

ちなみに、サロ110は平成4(1992)年、サロ111は平成5(1993)年で全車退役しました。製造初年が昭和37(1962)年のサロ111も30年前後の現役生活を全うしたことになりますが、サロ110は製造初年が昭和33(1958)年ですから、もし最も古い車両が最後まで残っていたとしたら、実に34年間も現役を続けたことになります。これは優等車の寿命としては驚異的な長命ではないんでしょうか? もっとも、一番長命なのは「はまかぜ」に使われているグリーン車のキロ180かもしれません。


次回は、211系投入がならなかった横須賀線に、遂に新型車両が登場する顛末を取り上げましょう。


その14(№1325.)に続く