その11(№1296.)から続く


国鉄の長期債務問題の解決のため、「分割・民営化」しかないという結論が出たのが、昭和60(1985)年のこと。今から25年も前の話だったのですね。

ちなみに、この当時の管理人は高校2年生。そりゃ年もとるわけです(ほら、そこのあなた! 計算しない!)。


…それはさておき。


この年、車体を軽量ステンレス構造とした新しい通勤車・205系がお目見えし、山手線に投入されました。最初の4編成は201系から戸袋窓をなくしただけの姿ですが、60年7月ころから投入された量産車は大きな1枚下降窓になり、さらに軽快で洗練された姿になりました。

その翌年、昭和61(1986)年の3月、小規模なダイヤ改正が行われたのですが、その改正に合わせるかのように、車体を205系と同じステンレスとした新しい近郊型・211系が登場します。

211系は、205系で実用化された「界磁添加励磁制御」を採用し、113系などと同じ直流モーターを搭載していても、電力消費量が劇的に減少しています(205系の場合、103系に比べて3分の2になった)。さらに211系が205系と比べても特徴的だったのは、MT比を下げてT車の比率を増やしたことです。これは、編成中の電動車の数を最小限に抑えることで、軽量ステンレス構造の車体と相まって編成全体の重量を軽量化することで、単位重量当たりの出力を上げ、それによる電力消費量の減少や線路に与えるダメージの低減、騒音の減少などが目論まれていました。


113系と比べた211系の特徴は、以下の点にあったように思います。


1 前面はブラックフェイスとし、軽快さをアピール。
2 車体は軽量ステンレス構造として軽量化、窓も大きな1枚下降窓を採用して眺望にも配慮。
3 座席はバケット型を採用。
4 基本編成(グリーン車入り)10連、付属編成5連とし、113系の基本11連+付属4連とは構成が異なっている。
5 付属編成はオールロングシートとする。
6 MT比は2:3。基本編成4M6T、付属編成2M3T。15連では6M9Tとなる。
7 グリーン車は100系新幹線普通車と同型の座席を装備し、デッキと客室を仕切る扉は自動とする。


軽量ステンレス特有の、車体側面の波型模様(コルゲーション)の少ない車体は、当時の113系に比べてもかなり軽快に見えました。また、窓が大きくなったことも、「頑丈なのはいいことだ」あるいは「ゴツくてナンボ」といった「国鉄仕様」からの脱却を感じさせるものがありました。E231系やE233系が登場した今となっては、211系も十分「ゴツく」、国鉄テイストを色濃く感じさせるものがありますが…。


また、付属編成だけとはいえ、オールロングシートを採用するのも、思い切ったことをしたものだと思ったものです。それまでの113系はセミクロスシートが当たり前でしたから、これでは通勤電車とどこが違うんだ(戦前の41系とか、西武の101系・701系など、20m級の車体を持ちながら3ドアロングシートの通勤車も多数存在する)と思ったものです。その後、4ドアロングシートのE217系が登場して、近郊型と通勤型の区別が、ことJR東日本においては有名無実化してしまいましたが…。

もちろん、ロングシートの採用には理由があり、それは朝のラッシュの激化でした。朝ラッシュ時の混雑は東海道線でも例外ではなく、セミクロスシートの車両でうかつに中央に入ってしまうと目当ての駅で降りられないという現象が発生するようになりました。かつて80系で問題になった「乗降性の悪さ」を克服・改善しようとして113系が導入されたはずですが、それから18年後、113系でも乗降性の悪さが問題になったということです。これは、それだけ東京圏への「一極集中」が問題になっていることの証左ですが、当時はいわゆるバブル経済の前夜なので、景気の伸びも一因にあったのかと思います。その後、113系編成の中でも普通車をロングシートに改造する編成が出てきますが…。


セミクロスシートの車両も、シートピッチが改善され、113系のような窮屈さを味わうことはなくなりました。ただし、そのあおりで車端部にボックス席を作ることができなくなり、車端部はロングシートとせざるを得ず、ボックス席の数は113系の12に対して8と、3分の2に減少しています。


東海道線用211系について、外せないのはグリーン車ですが、2両組み込みの固定編成を組むことを前提に、車掌室つき(サロ210)と便所・洗面所つき(サロ211)を1両ずつ組み込み、2両がユニットを組む形で設備が整えられました。このような考え方は、後のE217系やE231系などに生かされています。

ちなみに、211系の最も特徴的な点は、それまで勾配線区対応・寒地対応型とそうでない車両は系列が別だったのですが、それを番代区分のみにし、同一の系列に統合したことです。これも技術の進歩といえばそうなのですが、当時の国鉄では異形式にすると会計検査院から睨まれたり、労働組合の抵抗に遭ったりしていましたので(だからこそ、115系3000番代やEF64 1000などは、基本番代とスペックが全く異なる車両でも番代区分だけで済ませていた)、予算折衝と労務管理の両面での配慮があったのかもしれません(寒地向け211系については、当記事の性格上言及しないことにします)。


211系は好評裡に増備されましたが、当時の国鉄は民営化前夜の激動の時期。そのためか、211系も東海道線用の113系を全部置き換えるまでには至りませんでした。

211系は東海道線だけではなく、横須賀線への投入も予定されていたようですが、実際には投入されていません。その最大の理由と思われるのは、逗子駅の電留線と、いわゆる「田浦駅問題」でした。田浦駅は崖が迫る地形の関係でホームの有効長が10連相当分しかなく、そのために211系投入による基本編成の10連化が計画されたことがあったのですが、そうすると今度は付属編成を5連にする必要が生じます。しかし、逗子駅も地形の関係で付属編成を留置する引上線を5連対応にするのが難しく、そうかといって4連+11連にすると基本編成は4M7Tとなってしまい、211系のスペックでは加減速性能を確保するのが難しくなってしまいます。横須賀線に211系が投入されなかったのには、そのような事情があったことが大きかったと思われます。

211系が投入された翌年の4月1日、国鉄は114年間の国営鉄道としての歴史を閉じ、民間会社JRとしてのスタートを切ります。


国鉄時代末期からJR初期は、設備投資が抑制されていたため、車両も新車投入よりも既存車の改造で賄われることが多くありました。そのような改造車の坩堝となったのは、東海道線・横須賀線のグリーン車でした。

というわけで、次回は国鉄時代末期からJR発足後までのグリーン車の顔ぶれを見て参りましょう。


その13(№1320.)に続く