その5(№1030.)から続く


「毎週火曜日更新」を謳っているにもかかわらず、2日遅れになりまして申し訳ございませんm(__)m


終戦直後の混乱も次第に落ち着き、昭和24(1949)年6月1日、それまで政府の直営であった「国鉄」は、公共企業体「日本国有鉄道」となり、運輸省から国鉄へと移管されました。


そしてこの年、食堂車も日本人の手に戻ってくることになります。既にその前年の昭和23(1948)年、戦後初の新造による寝台車としてマイネ40形が登場するなど、日本人の利用できる寝台車が復活していますが、食堂車の復活は戦後からの復興を印象付けるものといえるでしょう。

とはいえ、さすがに新製で賄うことはできず、「料理室つき3等車」といわれる半室形の食堂車でした。この車両は、オハ35から3両(1~3)、スハ32から2両(4・5)の計5両が改造され、オハシ30形と名づけられました。この車両は、20mある車体を3等分し、順に3等客室・食事スペース・厨房スペースと割り振ったものです。食事スペースの定員は18名と、戦前製全室型食堂車の標準である28~30名には及ばないものでしたが、それでもこの車両の登場は、昭和19(1944)年4月に廃止されて以来、5年半ぶりに食堂車が日本の鉄道に復活したことになります。

この「食堂車復活」というトピックは、落ち着いてきたとはいえまだまだ暗澹とした日本社会に明るい話題を提供するもので、利用客からは喝采を持って迎えられました。


オハシ30形は、この年の9月15日から東京-鹿児島間で運転を開始した急行1・2列車(のちの『霧島』→『桜島』)に組み込まれています。後にオハ35から改造された3両は尾久に転じ、前述のとおり東北系統の列車などで運用されたのに対し、スハ32から改造された2両は、何と昭和38(1963)年に20系の簡易電源車マヤ20に改造され、ブルトレ編成の一翼を担ったという、数奇な運命をたどった車両として記憶しておくべきでしょう。

そしてこの昭和24年9月は、「特急列車の復活」がなった時としても記憶しておくべきといえます。この特急列車の名前は「へいわ」。この列車の命名には連合軍(進駐軍)の口添えがあったといわれていますが、過酷な戦争に疲弊し平和を希求していた国民にとっては、受け入れられやすい列車名でもありました。

「へいわ」は、東京-大阪間を9時間で結び、戦前の超特急「燕」の8時間20分には及ばなかったものの、当時としては高速列車と言ってよい列車でした。この列車の運転開始にあたっては、オハシ30形のような半室型ではない全室型食堂車の連結が計画されましたが、いくら特急用といえども新製するまでには至らず、戦前型のスシ47形が4両整備されました。このスシ47形は、既に戦時中に「戦時改造」で3等車に改造されていた車両(スハ48形。元スシ37形)の食堂車に復活改造を施した車両や、連合軍の接収を解除されたスシ39形(これも元スシ37形)を整備した車両で構成されています。ちなみに、このスシ47形は、昭和28(1953)年の称号規程の改正でマシ29形に改称されています(この改正で3軸ボギー客車の形式の1の位を8・9に統一したため)。


このように、食堂車の復活・特急列車の復活とそれだけ見れば非常に華々しい話題でしたが、全くのバラ色かといえば、もちろんそんなことはありません。やはり一番の難問は、食材をどのように調達・供給するかだったようです。終戦後4年を経たこの当時においてもなお、食堂車での食事は「外食券」を所持する乗客にしか提供されず、しかも先着順の限定販売を行っていて、「外食券」を持っていても食事にありつけなかった乗客もいたようで、旅客全体のオーダーを満たすだけの食材の確保や料理の提供はできなかったようです。


そのような中、車両面での充実は少しずつ進められていきます。

昭和25(1950)年1月1日、「へいわ」は公募によって第1位になった「つばめ」に改称され、戦前の懐かしい超特急の名前が復活しました(ただし戦前は漢字書きが正式名称で、ひらがな書きは展望車のバックサインだけだった)。
また食堂車の復活は東海道・山陽系統以外でも順次進められ、この年の4月15日には上野-仙台間の急行「青葉」にオハシ30形が連結され、東北線系統でも食堂車が復活しています。その後は、北海道では翌26(1951)年7月5日、日本海縦貫線では昭和28(1953)年6月と、主要幹線系統で順次食堂車が復活しています。このほか、昭和25(1950)年5月には、特急「つばめ」の兄弟列車として特急「はと」が登場し、この列車にも当然のことながら食堂車が連結されています。


これら復活した食堂車は、オハシ30形のように既存車両を改造するか、又はスシ47形のように戦前型食堂車を整備、あるいは戦時改造を受けた車両を復活改造することで賄われていますが、昭和26(1951)年、戦後初となる完全新製の食堂車が落成し、「つばめ」「はと」に組み込まれることになります。この車両こそがマシ35形で、それまでの戦前型食堂車が車端部を絞っていたのに対し、車端部を絞らずなおかつ切妻となっているという堂々たる体躯を誇っています。

また、この車両で特筆されるのは、20m級の大型食堂車では初めて2軸ボギーの台車を採用したことです。それまでの食堂車は、揺れを抑えるためなどの理由で3軸ボギー台車を採用していましたが、既に2軸ボギーでも乗り心地や運転性能に遜色がないことが確かめられた結果です。ちなみに、2軸ボギーで初の優等車はマイネ40といわれますが、実際には昭和7(1932)年に2両だけ製造されたスイロフ30550(→スイロフ30)形があります。

マシ35形は3両が製造されました。


さらに、このマシ35形と外見がほとんど変わらない、冷蔵庫やレンジを電気化した「電化食堂車」も、同じ年にマシ36(→カシ36)形として新製されています。それまでの食堂車が、食材の冷蔵には氷などを用い、調理には石炭レンジを用いていたのに対し、この車両は厨房を電化し、装備の近代化を意図したものでした。

このマシ36形は2両が製造されましたが、やはり「オール電化にスイッチ!」というのは時期尚早だったのか、装備品の調子が悪く、落成後僅か2年の昭和28(1953)年には、早くも従来車と同様の仕様に改造し、マシ35形10番代に編入しています。厨房スペースの完全電化は、マシ36形の登場から7年後、20系の食堂車ナシ20まで待たなければなりませんでした。

ただしマシ36の名誉のために付け加えれば、厨房スペースの電化がうまくいかなかったのは、電源の安定確保が難しかったからではないかと思われ(電源車方式を取る20系は安定した電源の確保が容易だった)、その点は残念なところがあります。そして、このような管理人の見立てが単なる憶測にとどまらないことは、その後に登場したオシ17形が石炭レンジを搭載し厨房スペースを電化しなかったことで裏付けられると思います。


食糧事情も徐々に好転し、昭和26(1951)年の春ころには、代価を支払って米飯を求めることが可能になります。また食堂営業列車の数も昭和28(1953)年には進駐軍向け4列車・一般向け26列車となり、食堂車の両数も全室型42両、半室型25両の合計67両となりました。この数字は、おおむね戦前の最盛期の半数に回復しています。

このころまでの食堂車の営業は「日本食堂」の1社独占でしたが、その後は複数の業者の参入が見られるようになります。


その7(№1043.)へ続く