その4(№1025.)から続く


前回の記事で、食堂車の本当の受難は戦時中ではなく、むしろ終戦直後であると申しました。
その理由は、


1 戦時改造を受けた車両は、本来の食堂車として使われなくなってしまっていたこと
2 戦時改造を受けなかった車両も、連合軍(進駐軍)に専用車両として接収されたこと


です。


まず1ですが、食堂車の戦時改造は3等車への改造(完全な座席車に改造してしまうもの)の他、厨房スペースだけを残して食事スペースを客室にするものがありました。このような車両は、残された厨房スペースで「鉄道パン」などの販売をするという、車内販売の基地のような役割を期待されていたようです。とはいえ、販売自体は全ての線区で行われていたわけではないようで、食糧事情がそれほど厳しくない地域に限定されていて、なおかつ引揚者を主な対象にしていたようです。売る物も、雑穀やくず米を混入した粗末な(現在の目で見れば)弁当などでした。しかし、何といっても終戦直後のこと。車内販売といっても、このような弁当類の他には、そもそも売るべきものがほとんどなく、品揃えにはかなりの苦労があったようです。

ちなみに、厨房スペースだけを残して3等車に改造された車両は、「スハシ○○」(シは小さくハの右上に書き添えられていた)という形式表記をされていました。これと同じような表記の仕方は電車でも見られ、戦時設計電車として名高いモハ63形は、多くが電機品の不足から電装されずに落成したため「サモハ63XXX」という表記をされていました。こちらは、管理人がある文献で写真を見たときは、「サ」は同じ大きさで書かれていました。


そして2ですが、せっかく戦火を免れて無事に終戦を迎えた食堂車も、今度は進駐軍の手によって接収されてしまいました。接収されたのは食堂車ばかりではなく、寝台車や展望車、それに1等車・2等車といった優等車でしたから、このような車両が終戦後も日本人の乗る列車に連結されないまま進駐軍に召し上げられたのは、当時の日本国民に「敗戦」という事実をこれ以上ない形で、明確かつ残酷に示したものといえるでしょう。もっとも、当時は食材はもちろんのこと、あらゆる物資が欠乏していましたから、仮に食堂車が接収されず日本人の手によって運営できたとしても、そもそも調理すべき食材や売るべき物がなく、商売にはならなかったのではないかと思われます。

ところで、日本人の乗車する通常の列車に食堂車が復活したのは、特急「へいわ」が東京-大阪間に運転を始める昭和24(1949)年9月のことですが、実は日本食堂は、終戦の年の昭和20(1945)年9月17日、米軍当局と進駐軍軍人・軍属及びその家族の重点輸送のために供食取扱方契約を締結しており、さらにその僅か9日後の同月28日には、政府から進駐軍用列車食堂営業開始を委嘱されています。つまり、終戦の年には、既に食堂車営業は復活していたことになります。


しかし、復活したとはいえ、それは進駐軍の軍人及びその関係者に対するサービスであり、日本人の享受できるサービスではありませんでした。当時の状況が、「旅情100年」(毎日新聞社刊)に記されていますが、それによると、


…この食堂車は、肉類、卵、バター、チーズ、果物などなんでも豊富にそろっていた。飢えに苦しむ国民には夢のような食欲天国で、側で給仕した日食の従業員は「うらやましい限りでした」と当時を回想している…


ということです。このような話は、かつて「鉄道ファン」誌に吉村光夫氏(元TBSアナウンサー)も、進駐軍専用列車でボーイとしてアルバイトをしていたときの体験談として書いていますが、吉村氏も食堂車は別世界のようだったと回想しています。吉村氏は、まかない食としてカレーライスを食べていて、それが極めておいしく感じられたという話を書いていました(管理人の記憶によれば)。それだけ、当時の食糧事情が厳しかったということなのでしょう。

当時は、進駐軍専用列車を別にすれば、列車はとにかく「動いているだけで御の字」という状態だったようです。座席はなく、あっても布などが切り取られて持ち去られ、本数の少ない列車に乗客が殺到するのでデッキや屋根の上、果ては機関車の炭水車にまで乗り込むという凄まじさでしたから、食堂車のような「付加価値をつけるサービス」というのはできなかったようです。


社会の混乱を反映してか、鉄道界でも事件・事故が相次ぎ、昭和22(1947)年2月25日には八高線の東飯能-高麗川間で客車列車が転覆して184名が死亡し495名が負傷するという事故が発生したり(八高線列車転覆事故 。死傷者が多数出た原因は老朽化した木造客車が大破したことにあるとして、国鉄はこれ以後、木造客車の徹底的な淘汰を進めた)、さらに「日本国有鉄道」が発足した昭和24(1949)年には「国鉄三大ミステリー事件 」といわれる下山事件・三鷹事件・松川事件が相次いで発生するなど、混迷を極めていました。

それでも混乱や欠乏は徐々に終息し、昭和24(1949)年ころには流通も食糧事情も好転し始めました。この年6月1日から、国鉄は政府直営ではなくなり、「公共企業体」といわれる独立採算を目指した組織「日本国有鉄道」が発足しています。もっとも、前記のとおり、新生・日本国有鉄道には禍々しい事件が続発し、かなりきな臭い中でのスタートとなったことは残念なことです。


この年から、日本人の手に食堂車が戻ってくるのですが、そのお話はまた次回。


その6(№1039.)へ続く