その6(№860.)から続く


国鉄vs東武の「日光バトル」は、東武のDRC投入が国鉄に大きなダメージを与え、東武の「TKO」といってもよい状態になりました。
というわけで、勝負も決した感もある中で第4ラウンドのゴングが鳴りましたが、その後の国鉄はどうなったのか?


実は、ほとんど「試合放棄」にも等しい状況で、国鉄の対日光観光輸送はじり貧になっていきました。


昭和39(1964)年10月1日、東海道新幹線東京-新大阪間が開業し、同時に東海道線を走っていた昼行特急は全て廃止されました。前年に定期化されていた「ひびき」も例外ではなく、157系の定期運用が消滅しています。
これで157系が本来の日光への観光輸送に戻るのか…といえば、さにあらず。157系は、この年の11月から急行「伊豆」として、下田や修善寺に向かうことになりました。つまり、157系の活躍の軸足は、対日光輸送から対伊豆輸送に移っていくことになります。
それでも157系は日光に顔を出し続けていましたが、昭和39(1964)年11月の時点で日光行きは1往復にまで減少してしまいました。

さらにその2年後の昭和41(1966)年3月、国鉄は走行距離100㎞以上の準急列車を全て急行列車にするという料金制度改正を行い、これによって「日光」は急行に格上げされています。しかし、このとき既に日光への列車は、ほとんどが165系で運転されるようになってしまったため、157系から165系になって車両・設備のグレードが落ちたのに、さらに準急が急行になることにより実質的な値上げになってしまい、さらに利用者にそっぽを向かれる結果になってしまいました。この問題は伊豆方面の列車でも顕在化し、同じ急行列車でありながら157系と153系の設備格差が問題になりました。
それからさらに3年後、昭和44(1969)年4月25日のダイヤ改正で、157系は遂に日光の観光輸送から完全に撤退し、伊豆への観光輸送のみに専従することになります。このとき、伊豆への列車は特急となり「あまぎ」と愛称がつけられました。その他にも、157系は軽井沢方面への「そよかぜ」や吾妻線方面への「白根」などに充当されたのですが、どういうわけか、日光には臨時列車であっても全く顔を出さなくなってしまいました。


国鉄の急行「日光」が、それでも165系で運転されているうちはまだ良かった。
昭和45(1970)年からは、なんと下り1本が、近郊形電車である115系での運転とされてしまいます。このような近郊形電車の使用は、高崎線や常磐線などでも見られましたが、その理由は朝ラッシュの激化により、ドア数の少ない急行形電車が使いにくくなったことが理由のようです。当時上野駅を朝に出る急行は、上りの普通列車で出庫することが多く、それがラッシュにぶつかってしまうため、その時間帯の列車に限り近郊形車両に置き換えるということです。
しかし、同じ急行料金を支払いながら、デッキもなく遮音性・保温性に劣る近郊形電車に乗せられるというのは、一般乗客にとっては理不尽に感じられたようで、「ボッタクリ急行」の悪評を頂戴してしまいます。それはともかくとしても、日光への観光客輸送で東武との華々しいバトルを繰り広げた国鉄が、こともあろうに近郊形電車を使用してエクストラチャージを徴収するとは…。そのような事態が出来することそのものが、対日光輸送における国鉄の立場の凋落を、これ以上ないくらい鮮明に表すものといえます。


ではこの間、東武は何をしていたか。


国鉄が自滅によって失点を重ねていく間にも、東武は着々と自らの足場を固めていく作業を地道に行います。
まず、昭和46(1971)~48(1973)年にかけて、1700系列の車体と内装を、DRCと同じものに載せ変えて更新しました(メカニックはそのまま流用)。これは、日光線の特急列車は、DRCと1700系列とでサービスレベルに格差があり、それが料金面で埋められなかったため(料金は割高でもDRC使用列車の方が乗車率が高かった)、サービスレベルを統一するためにとられた施策です。この更新により1700系列は6連×2本に整えられ、以前からのDRC編成とあわせて6連×9本となりました。
この更新により、全ての特急がDRCでの運転となり、サービスレベルの格差の問題は解消しました。
あわせて、昭和48(1973)年には、戦時中に単線化されたままだった合戦場-下今市間が複線に復元され、列車交換の必要がなくなったことでさらなるスピードアップが図られています。このとき、「けごん」の中には浅草-東武日光間をノンストップで結ぶものが現れ、この列車の所要時間が、現在に至るまでの東武特急のレコードとなっています。


このように、車両・スピードの両面において国鉄を凌駕した東武。しかしターミナルは依然浅草であり、浅草の繁華街としての地位低下に伴い、その足場の悪さは弱点として残っていました。
これに対し、ターミナルの立地や利便性は国鉄の方に一日の長があったはずだったのですが、国鉄は、そのアドバンテージを自ら放棄するという挙に出てしまいます。既に昭和48(1973)年の時点で新宿発着の列車は消滅していましたが、列車創設時から東京駅発着を維持していた「日光」も、遂に昭和50(1975)年3月、東京駅発着を取り止め、上野発着に統一されています。
ただしこれは、当時東京駅構内で東北新幹線の建設工事に着手されたため、上野発の東北・上信越・常磐方面への列車の発着が取り止められたからで、これも外的要因であるといえ、それ故に国鉄だけを責めることはできないのですが。
しかし、これによって国鉄は、自らのアドバンテージだった、利便性に富むターミナルの1つを放棄してしまったことは事実であり、ただでさえじり貧だった国鉄の競争力を、さらに減殺してしまう要因になったこともまた事実です。

その「日光」も、昭和51(1976)年11月、利用者の大顰蹙を買った115系使用列車が快速に格下げされたことで下り1本が減り、昭和53(1978)年10月のダイヤ改正で2往復に減便、その4年後の昭和57(1982)年11月のダイヤ改正時に全廃され、ここに東京からの日光への優等列車は全滅してしまいました。


この「日光」廃止により、国鉄vs東武の「日光バトル」は、第4ラウンドで国鉄の自滅に近いKO劇により、終了のゴングが鳴らされることになります。結果はもちろん、東武の完勝ということになりました。


管理人が思うに、このバトルが東武の完勝に至った一番の理由は、東武が「対日光の観光客輸送『を』する会社」であるのに対し、国鉄は「対日光の観光客輸送『も』する事業体」だったことにあるのではないでしょうか。つまり、東武は対日光の観光客輸送に全精力を傾け、社運を賭けることができたのに対し、国鉄は東海道新幹線開業や対伊豆輸送、東北新幹線工事などにも精力を振り向けざるを得ず、日光だけに全精力を傾けるわけにいかなかった。当時の国鉄にとっては、こと対日光輸送に関する限り、足を引っ張る外的要因が余りにも多すぎたように思います。これも両社の事業内容の違いからやむを得ないところがあるのですが。


このように、「日光バトル」は東武の完勝という結果で幕を閉じましたが、国鉄を完全KOに追い込んだあとは「我が世の春」を謳歌する…ということになったのでしょうか。
次回は、「日光バトル」完勝後の光と影を取り上げます。


その8(№881.)へ続く