その5(№851.)から続く


東武の5700系投入を機に、一気に白熱した感のある国鉄vs東武の「日光バトル」。
国鉄は、昭和34(1959)年に157系を投入し、なおかつ東京・上野・新宿の都内3大ターミナルからの始発列車を運転し、東武に対する攻勢を強めていきます。


このように、東武が劣勢に追い込まれた中で鳴った、第3ラウンドのゴング。そこで東武は、どのような反撃を見せたのか?
それは、157系を全ての面で圧倒する、日本の特急用鉄道車両の最高峰といっても過言ではない特急車の投入でした。


実は、身も蓋もない言い方をすれば、以前に東武が投入した1700系列は、完成度の高い特急車ではあったものの、当初から「つなぎ役」でしかありませんでした。こうした傾向は何も東武だけのものではなく、小田急でも日本で初めて簡易リクライニングシートを採用した2300系が「SE車」登場までのつなぎであったりとか、近鉄でも2250系が「ビスタカー」などの就役によって10年も経たないうちに特急運用を退くという事例もみられます。この時期は、それだけ技術面でも接客面でも、進歩のスピードが速かったのでしょう。
東武が投入を計画していた新特急車は、早くも157系の登場が確実視されていた昭和34(1959)年の段階で、開発に着手されていました。
その新特急車のスペックとは…。


1 先頭形状は特徴のあるボンネット型。これは同時期の乗用車(日産セドリック)をモデルにしたといわれている。
2 塗色はマルーンとベージュのツートンだが、国鉄特急車を意識した塗り分けに変化。
3 冷房装置を搭載。
4 座席は1100mmピッチのリクライニングシート。そのグレードは国鉄1等車を凌駕。
5 ビュフェとサロンルームを装備。サロンルームでは当時珍しかったジュークボックスを備え、乗客が好みの音楽を流すことができるようにした。
6 外国人観光客に配慮し、洋式トイレを装備。
7 メカニックは全電動車方式(2000系と同じ)だが、高速巡航性能に意が払われている。


御覧いただいてお分かりのとおり、この新特急車・1720系は、当時の特急「つばめ」「はと」「こだま」の優等車と比較しても全く遜色がないどころか、むしろそれらを遙かに凌駕するハイグレードな内装を誇っていました。しかも編成には、157系にはないビュフェやサロンルームまであり、これも食堂車がなかった国鉄に対する大きな「売り」となりました。特にサロンルームは、それまでの国鉄の列車にはほとんどなかった発想で、僅かに終戦直後の占領軍専用列車やマイテ49などの1等展望車にその発想が見られるくらいでした。昭和20年代の外国人観光客を意識した固定編成の観光列車にはこのような発想があったようですが、当時の国鉄は押し寄せる膨大な旅客需要を捌くことに必死だったためか、このような発想が陽の目を見ることはありませんでした(このような発想が完全に形になったのは、管理人は『トワイライトエクスプレス』ではないかと思っています)。それが、私鉄の東武の特急列車で、形は変わっても陽の目を見たわけですから、当時の国鉄の幹部は度肝を抜かれたことでしょうね。
それにもまして特徴的だったのは、151系のそれよりも遙かにいかつく、押し出しの効いた直線的な先頭部のデザインでした。この車両の先頭形状がボンネット式になったのは、151系の真似というわけではなく、コンプレッサーなど騒音を発生させる機器を客室から遠ざけるという必要性に駆られてのことだったのですが、151系が優美なデザインなのに比べると、その無骨さは際立っています。
ことによると、当時の東武の設計陣その他社員一同の、「俺達は国鉄を超えるものを作るんだ!」という意地や気合いが形になっているのかもしれません。


昭和35(1960)年、1720系が「けごん」「きぬ」として走り始めると、日光への観光客から絶大な人気を博すようになり、特急券はプラチナチケット状態になりました。それと同時に国鉄の157系は見劣りがするようになってしまい、このころから国鉄の対日光観光輸送は下火になっていきます。
つまり、この1720系の登場は、かねてからターミナルの貧弱さで国鉄の後塵を拝していた東武が、それを補って余りあるハイグレードな内装と高い居住性、行き届いたサービス(特急にはスチュワーデスが乗務するようになった)を提供することによって、国鉄に完膚無きまでの一撃を食らわせようという、まさに東武にとっては乾坤一擲の大勝負だったといえます。


この1720系は、内装の豪華さから「デラックスロマンスカー」と愛称が付けられ、その頭文字をとった「DRC」、あるいは単に「デラ」などといわれ、愛好家や観光客に親しまれました。
今にして思えば、この愛称、元祖ロマンスカーは小田急だが内装の豪華さではうちの方が上だ…という、東武の密かな自負心のようなものを感じます(別に小田急を貶める趣旨ではないので、誤解なきように願います)。


さて、そうなると、東武の内部においても、従来の1700系列やその他の列車との格差が無視できないレベルになってきます。
東武はその点も抜かりはなく、1700系列を使用する特急とDRCを使用する特急とで料金に格差を設け、前者を割安に設定しグレードの偏りに配慮しています。当時1700系列は冷房改造を済ませていましたが、それでも料金格差を設けざるを得なかったところに、いかにDRCがハイグレードな車両だったかが現れているといえます。
さらに、東武では、特急券が取れない観光客の救済として、一般車で「快速」「準快速」などの速達系列車を運転してきましたが、これらの列車は戦前形の一般車で運転されており、体質改善が強く望まれていました。そこで昭和39(1964)年、国鉄の急行形電車にそっくりな2ドアクロスシートの6000系を就役させ、料金不要の優等列車のグレードも向上しました。


これに対して国鉄は、157系が東海道系統の特急「ひびき」に登用され、冷房改造はなされたものの157系が日光準急に充当される機会が減り、代わりに165系が充当されることが多くなっていきます。
しかし165系は、御存知のとおり完全な急行形で、157系と比べて(特に2等車のレベルは)明らかに劣るものでした。そのせいもあって、日光への観光客は、徐々に国鉄ではなく東武をチョイスするようになっていきます。
ただし現在の視点で言えば、当時は東海道新幹線の開業が間近に控えており、しかも特急増発のために新たな特急車を製造することは、費用対効果と転用先確保の問題で憚られたのでしょう。それ故に当時の国鉄では、157系の転用が最良の選択肢だったと思われます。そうすると、当時国鉄が「日光バトル」で劣勢に立ったのは、外部的な要因もあるといえ、いかんともしがたい部分があるのも確かです。


これで「日光バトル」の第3ラウンドは、1720系DRCの登場により東武がかなりの高ポイントを獲得、対する国鉄はいわば「自滅」により東武にポイントを献上する形となり、ほとんど「TKO」に近い、東武の決定的な優勢となりました。
第4ラウンドにおいては、東武の勝利が決定づけられるのですが、その顛末はまた次回。


その7(№866.)に続く