その1(№821.から続く)


前回は東武日光線開業前夜の日光への観光客輸送について取り上げましたが、その絵図も東武日光線開業によって一変することになります。


では、開業当初から戦前の東武は、どのような列車を運転していたのでしょうか?

当然ですが、東武日光線は日光東照宮への参拝客や観光客を当て込んで建設した路線ですから、そのような需要に応える輸送が展開されることになります。具体的には、主要駅のみに停車する「特急」の運転が開始されたのですが、この「特急」は、現在の「スペーシア」のような豪華な特急ではありませんでした。使用車両も、一応長距離用にセミクロスシートを装備した車両とはいえ、あくまで「長距離用の一般車両」でしたし、速達の対価としてのエクストラチャージなどは徴収していなかったようです。ということは、この列車は名前とは裏腹に、現在の「快速」に近い列車だったようです。


国鉄は慌てました。それまで独占状態だった対日光への輸送に、東武という大私鉄が殴り込んできたのですから。特に、国鉄が非電化なのに対し東武は電化路線で電車を運転していますから、線形はもちろんのこと、スピードでは到底太刀打ちできません。だからこそ東武は、昭和初期の早い時期に、全線を複線電化路線で建設したのでしょう。現在でも伊勢崎線は館林以北が単線のままですが、そのような中で日光線が全線複線で建設されたというのは、当時としてはかなり大規模な設備投資と思えます。そのような大規模な設備投資をしても、十分にペイできる。東武日光線のインフラ整備には、そのような経営判断があったことは、想像に難くないのです。

国鉄は、東武に対抗するかのように上野-日光間で準急列車の運転を開始し、同区間を2時間40分台で結ぶことに成功します。当時は、日光線はもちろんのこと、東北線も非電化ですから、当然列車はSL牽引の客車列車。しかも宇都宮でのスイッチバックまであるという大変なハンディキャップを背負っています。にもかかわらず、この数値は大いに健闘していると評価してよいレベルだったようです。戦後の「準急行」すなわち準急列車は、準急行料金というエクストラチャージを徴収していますが、この列車はそのようなものは徴収していませんでした。ことによると、この日光への直通列車は、東武との競争を意識し、エクストラチャージなしで気軽に乗れ、しかもそこそこのスピードで運転する、という位置づけだったのかもしれません。とはいえ、この列車には和食堂車を連結していましたから、看板列車としての位置づけは揺るがないものがあったようです。


東武だって負けてはいません。
日光線開通翌年の昭和5(1930)年には、伊勢崎線系統と杉戸で分割・併合する「急行」の運転を開始、「特急」の一部の列車には特別車両扱いとして(現在のグリーン車のようなものか?)、貴賓車・トク500の連結を開始しました。ただしこのときも、貴賓車以外の車両は特に優等列車用として新造あるいは整備されたわけではないようで、貴賓車以外のエクストラチャージの徴収はしていません。
このトク500は、日光東照宮を控えていたために用意された、皇族方の御利用や外国のVIPの乗車を見込んだ貴賓車ですが、本来の利用が滅多にないことから、稼働率向上のために定期列車に連結したものです。しかし、この車両は展望デッキがあるだけで運転台がなく、国鉄の展望車・マイテ39やマイテ49などと同じような構造で、どちらかというと客車に近い車両でした。そのため、必ず編成の最後部に連結する必要があったばかりか、両方の終端駅では機関車の「機回し」のように牽引役の電動車を先頭につなぎ変える必要もあり、運転取り扱い上は扱いにくい車両だったようです。

東武の攻勢はその後も続き、昭和6(1931)年11月に現在の松屋デパートの2階にある「浅草雷門」駅(現浅草駅)を開業させ、当時東京で一番の繁華街だった浅草への乗り入れを果たします。これによって東京側のアクセスが改善され、しかも当時は珍しかった地下鉄「東京地下鉄道」(現メトロ銀座線)との連絡運輸も開始されるなど、利便性も飛躍的に向上していきます。


そして東武の戦前の黄金時代を決定づけたのは、昭和10(1935)年に登場した「ロマンスカー」デハ10系です。この車両は、東武として初めて製造した特急列車専用車で、車内にはクロスシートが装備されていました。この車両が落成して以降、「特急」は全てこの車両、あるいは貴賓車トク500を後部につないだ編成で運転され、大好評を博しています(ただし、このとき現在の特急料金のようなものを徴収していたかどうかは不明)。

さらに、昭和12(1937)年には、鬼怒川方面への「特急」の乗り入れも開始されます。鬼怒川方面へは東武ではなく「下野電気鉄道」という別の私鉄が建設した路線が通じており、国鉄との貨車の授受のために開通当初のナローゲージ(762mm)を改軌した路線です。この路線は、東武が日光に達する前に開業していますが、当初は国鉄と連絡していました。それが東武との連絡に改められたものです。なお、浅草から鬼怒川への直通列車が走り始めた当時、既に下野電気鉄道は資本的にみて東武の傘下におかれていたようですが、その後正式に東武に合併されています。
鬼怒川へ行く列車に乗りますと、複線電化の線形の良い路線を進んできた列車が、突如急カーブに身をよじるようになり、日光線と鬼怒川線の落差がはっきり分かりますが、これはやはり両線の出自の違いが現れているのでしょう。


ともあれ、このころが東武日光線の戦前の黄金期だったといってよいと思います。
しかし、忍び寄る戦争の影は、この路線にも暗い影を落とし始めることになります。国民全体が「ぜいたくは敵だ!」というスローガンに象徴されるように、日常生活に直接関係のない支出を抑えるようになっていきます。この傾向は、観光旅行を直撃し、不要不急の旅行は差し控えるような動きも強まっていきます。
それと同時に、東武でも軍需工場への通勤客輸送を担う路線へのテコ入れが図られるようになります。具体的には宇都宮線や小泉線などですが、当時熊谷から延びていた妻沼までの路線(熊谷線)を、利根川を越えて小泉まで伸ばす計画が立てられ、実際に工事に着手されます。その路線に使用する線路には、何と日光線の新栃木以北を単線化して充てることになりました。
これは、日光線が「観光地へ向かう路線」として、軍部から「不要不急路線」のレッテルを貼られ、複線までは必要なし、ということになったことに起因しています。それにしても、単線化が実施されたのが昭和18(1943)年、同区間が完全に複線に復元されたのがそれから30年後の昭和48(1973)年だったのですから、戦争の傷痕がそこまで深く刻まれていたのだと嘆息せざるを得ません。

なお、このころまでに、日光線の「特急」も運転を取り止めています。


このような動きは国鉄でも同様で、日光直通列車から食堂車が外されたり、準急運転を止めて全て各駅停車にされるなど、観光輸送は縮小されていきました。

対日光輸送の暗黒時代は、終戦まで続くことになります。


その3(№840.)へ続く