今回から全10回にわたり、東武日光線の80年の歩みを取り上げる連載記事「光の射す方へ」を開始いたします。

タイトルですが、いろいろ悩んでなかなか決められませんでした。ですが、日光といえば「東照宮」。この神社が江戸の北にあって「東を照らす」という意味で設営されたという史実にかんがみると、「光」にちなんだタイトルをつけるのがよろしかろうと思い、冒頭のタイトルをつけました。なお、このタイトルはMr.Children(ミスチル)の歌から拝借しました。


日光東照宮。

言うまでもなく江戸幕府の開祖・徳川家康を祀る神社ですが、以前から一般庶民の来訪を禁じてはいなかったため(ただし一般庶民の参拝はできなかった)、多くの観光客(と言っていいのか?)を集めてきました。
明治期に入り鉄道の建設がなされるようになると、当然のことながら、日光に向かう鉄道路線の建設が計画されるようになります。
現在は東武で日光に向かうのが一般的なルートですが、そのルートが開設されたのは今から80年前の昭和4(1929)年。それ以前にルートを開いたのは、現在の東北本線を建設した日本鉄道でした。東武がルートを開いた昭和4年よりも40年近く前、明治23(1890)年には、既に現在のJR日光線が開業しています。それにしても、東海道線が全通したのが日光線開業の1年前ですから、その時期に日光への鉄道のルートが開かれたということは、いかに日光へのルートが重要視されていたか、実によく分かる史実ですね。


当時の上野-日光間の列車はどのくらいの所要時間がかかっていたかというと、3時間半くらいはかかっていたようです。驚くべきはその編成内容で、何と和食堂車を連結していたといいますから、この日光行きの列車は、長距離列車かそれに準ずる看板列車として遇されていたことが分かります。

余談ですが、食堂車は昭和の初めまで「和食堂車」と「洋食堂車」の2種類があり、前者が急行など庶民的な列車に連結され、後者は和食堂車よりも高級な位置づけだったのか、特別な列車に限定して連結されていたようです。当時の時刻表のマークは、洋食堂車こそ現在のナイフとフォークの交差したマークですが、和食堂車はお盆の上に丼とお椀が載ったもので、現在の目で見てもなかなか優れたデザインだと思います。さらに余談をいえば、日本初の特急「富士」「櫻」のうち、1・2等オンリーの前者には洋食堂車が、3等車オンリーの後者には和食堂車が連結されていました。これは編成車両の等級も考えた結果ですが、「富士」には外国の賓客が多く乗車することも想定されていたようです。


このようにして、日光への輸送は、しばらくの間日本鉄道~官鉄(国鉄)の独占が続きましたが、その独占状態に楔を打ち込んだのは、昭和4(1929)年の東武日光線開業です。日本鉄道~官鉄(国鉄)のルートは、宇都宮を大回りし、かつ宇都宮でスイッチバックをするというハンデがあったのに対し、東武はほぼ日光街道に沿ったルートで一直線に日光を目指すルートとなっており、ルート上は東武が有利になっています。
この東武日光線は、伊勢崎線の杉戸(現・東武動物公園)から分岐する形になっていますが、当初は葛生線の葛生から先を日光まで延伸しようという計画もあったようですが、こちらのルートは山越えが発生することや、現在の日光街道沿いのルートであれば山越えもなく、なおかつ街道の宿場町(幸手・栗橋・古河など)を通るので集客上有利ということも決め手になったようです。

この東武日光線は、伊勢崎線が開業当初SLによる運転だったのに対し、当初から電化され、電車による運転とされました。これによって浅草(業平橋)-東武日光間約130kmという、当時の電車運転区間としては破格の長距離路線となっています。当時、電車で100km以上の長距離運転を行っていたのは大阪電気軌道(現・近鉄)の大阪線・山田線の上本町-宇治山田間くらいでしたが、日光への道はそれと並ぶものでした。


ところで。

戦前の電車運転は「西高東低」の傾向が強かったことはつとに指摘されていますが、愛好家の耳目を集めたのは上記の近鉄大阪・山田線のデ2200系による高速長距離運転ばかりで、こちら東武の運転はあまり注目されていなかったように思います。関東地区では、国鉄の本格的電車列車の運転として、横須賀線が翌昭和5(1930)年にモハ32系による運転を開始していますが、この横須賀線ともども、どうも関東地区の長距離運転の電車は過小評価されているように思うのは、ひとり管理人だけでしょうか。


では、当時の東武はどのような列車を運転していたのか?

これを見ていくと、戦前の黄金期が見えてきますが、これはまた次回のお楽しみに…。


その2(№831.)へ続く