その6(№415.)から続く


昭和45(1970)年前後は、583系使用列車も本家のブルトレも増発を重ねた、まさに寝台特急の黄金期だったことは、これまでの記事でお分かりいただけることと思います。

ブルトレの快進撃はまだまだ続きますが、昭和48(1973)年になると、前年の北陸トンネル列車火災事故の経験から、寝台車にディーゼルエンジンを積むという分散電源方式の採用を見合わせることになりました。

そこで、国鉄は、身なりは14系とほぼ同じで20系のような電源車方式に戻した24系を新造し、関西ブルトレに投入しました。

具体的には、昭和48(1973)年10月のダイヤ改正で「あかつき」「彗星」が2往復ずつ増発され(ただし1本は後述するように両者の併結だから、列車本数としては3本の増加)、この増発列車に24系が充当されました。

この24系は、A寝台・B寝台とも先発の14系とほぼ同じアコモを有しており、身なりは全く同一に見えました。ただし、車両の耐火構造や不燃化構造は徹底されていて、14系では使用されていた台枠の木材が24系では使用されていません(後日、JR北海道で『北斗星』用の客車を改造する際、青函トンネルの防火基準を満たすためにこの構造の差異が問題となった)。

ちなみに、この24系投入で浮いた20系は「あけぼの」の増発用に回されています。


この24系使用列車で特筆されるのが、新大阪-佐世保・大分間の列車と、食堂車のない編成です。


1 初の異列車名併結ブルトレ


電源車方式の24系を分割併合を伴う列車に使用するというのもそうですが、一番の特徴は、佐世保行きと大分行きで列車名を分けたことです。佐世保行きは「あかつき」、大分行きは「彗星」となりましたが、この列車は、愛称名の異なるブルトレが併結されるという初めてのケースとなりました。

それまでの「さくら」「みずほ」「はやぶさ」にしても「あかつき」にしても、分割併合があっても同じ愛称で通すというのがデフォルトでしたから、この異列車名併結は、当時の愛好家には奇異に映ったことでしょう。国鉄は、鹿児島・長崎方面と大分方面との列車名が分けられていることから、誤乗防止のために別名称にしたようです。

ちなみに、このときの併結「あかつき」「彗星」について、ヘッドマークは用意されませんでした。その後「あかつき」と「彗星」の併結は、平成12(2000)年3月に復活し平成17(2005)年9月に解消されていますが、このとき取り付けられたヘッドマークは、平成12年の復活時に新たにデザインされたものです。


2 食堂車のないブルトレ


さらにこの24系使用列車で特筆されるのは、食堂車を含まない編成が投入されたことです。これにより、臨時列車などの一部の例外を除いて初めて、食堂車のない定期ブルトレが登場することになりました。

食堂車営業の縮小は既に昭和45(1970)年ころから、電車の583系使用列車について始まっていましたが、遂にそれがブルトレにも及んできてしまいました。電車の場合は、この車両自体寝台使用時には身の置き所に困るため、就寝時間をできるだけ外れない列車に重点的に投入されていたことから、そもそも食堂車営業自体割に合わなかったといえ、やむを得ないところはありました。それが、本家のブルトレでも食堂車のない編成が出現したことは、少なからずショッキングでした。もっとも、これらの列車もほとんど就寝時間帯を外れない列車なので、国鉄はあまり問題にならなそうな列車を見極めて食堂車を外したととれなくもないのですが。

食堂車のないブルトレの第1号となったのは、新大阪-長崎間の「あかつき」と新大阪-大分間の「彗星」各1往復です。それまでのブルトレは、食堂車の連結・営業がデフォルトで、それがひとつのステータスになっていたのですが、そのステータスを捨てた実用本位の列車になってしまったような印象を受けます。

このころは、新幹線の博多開業が見え始めた時期で、新幹線自体も路線と所要時間の延伸により、それまでのビュフェでは供食設備として貧弱であることから、食堂車の導入が計画されていました。あるいはこのころ既に、新幹線博多開業をにらんで食堂従業員の確保・教育の必要があったため、在来線の食堂車を絞り込もうという動きがあったのかもしれません。

その後、ブルトレの食堂車は、昭和50(1975)年3月改正までに東京発着の系統以外から全て消え、合理化が深度化されます。さすがに「日本海」のような列車からも食堂車を外すというのは批判もあったようですが…。


前後しますが、この24系が登場する1年前には、寝台車ではないブルートレインが登場します。それが14系の座席車で、普通車ばかり6両編成を1単位とする編成が組まれ、臨時特急や団体臨時列車などに使用されるようになりました。それまでも、昼行の臨時特急には12系が使われていたのですが、12系は冷暖房完備ではあるものの、急行形電車や気動車と同じボックスシートであることから、12系使用列車については、特急料金を100円割り引くという措置をとっていました。それが、この14系客車の就役により、真に特急らしい車両が誕生したわけです。

14系座席客車の内装は、当時同世代の183系電車と共通する簡易リクライニングシートで、当時の特急用車両としては十分な水準に達していました。この車両は臨時の「しおじ」や「つばさ」などに使用され、後には夜行急行にも使用されるようになります。

12系とは異なり、この14系座席車は特急用車両ですし、外装も14系寝台車と同じセルリアンブルーに白帯ですので、これはブルートレインの仲間に加えて差し支えないのでしょう。


ところで。

話を24系に戻しますが、同車はいわゆる「関西ブルトレ」に集中的に投入されました。次回取り上げる24系25形もそうなのですが、本来、ブルトレの発祥は東京-山陽・九州系統のはずで、何故その系統により新しい24系を入れなかったのかという疑問が浮かびます。

これは、当時新幹線が博多まで達しておらず、そのため東京からの利用客も大勢いた。だからこそ、定員減を恐れて24系を投入することができなかったのではないかと思われます。当時関西ブルトレは、増発に次ぐ増発を重ね、まさに日の出の勢いでしたから、新しい試みもしやすかったということもあると思います。
しかし、関西ブルトレは、新幹線の博多開業の影響を最も直接に受ける系統でもありました。
その影響を受ける直前、関西ブルトレが最後に咲かせた大輪の花、それが24系25形なのですが、そのお話はまた次回に。


その8(№431.)に続く