その5(№415.)から続く


昭和46(1971)年、東京-宇野間の四国連絡急行「瀬戸」に、それまでの10系寝台車に代わって、新しい寝台車が組み込まれました。

この寝台車は「14系」と呼ばれる車両で、以下のような特徴がありました。


1 B寝台車の幅を拡大(52cm→70cm)。これによって寝返りが打てるようになり、居住性は大幅に向上した。

2 A・B両寝台車とも、寝台のセット・解体を合理化するため、自動昇降装置を採用。

3 20系の電源車方式を止め、編成端に来る緩急車に発電機を搭載する電源分散方式を採用。これによって分割併合運用が容易になる。

4 外装は20系の紺(インディゴブルー・青15号)を明るくしたセルリアンブルー(青20号)。帯もクリーム色から白色に変え、窓上の帯は省略。


内装面での最大の特徴は、1の寝台幅の拡大でした。これまでの10系客車や20系客車のB寝台車は、583系電車寝台の登場や日本人の体格の向上などにより、「狭い」という評価が出るようになりました。そこで、サービスの一環として寝台幅を拡大したものです。この寝台幅拡大のため、車体長(全長)は20系の20.5mから21.3mに伸びています。

また、自動昇降装置の採用も特筆されます。当時は寝台列車が増えていった時期で、寝台のセット・解体の要員も不足が目立ってきましたから、これを合理化できる自動昇降装置の採用に踏み切ったものです。

これに対して分散電源方式の採用は、メカ面での特徴といえるでしょう。それまでの20系は電源車方式(集中電源方式)でしたから、分割併合運用のためには分割併合する駅に電源車を待機させておく必要がありますが、分散電源方式ならばその必要はありません。ただ、遮音性・静粛性の観点からすると、緩急車(スハネフ14)は相当難があったようで、愛好家には「キハネフ14」などと揶揄される始末でした。しかし、管理人は何度かスハネフ14に乗車したことがありますが、うるさくて眠れなかったことは一度もありません。なので、結局はこれも個人の感覚の問題だと思います。

分散電源方式は、この2年前の昭和44(1969)年に登場した12系客車に範を取ったもので、14系の場合、1両の電源で5両まで(ただし食堂車は2両分として計算)電源を供給できるようになっています。余談ながら、14系客車の車体色の「セルリアンブルー+白帯」は、12系で初めて採用されたもので、そういう意味では12系は14系の兄弟車といえます。ただ、12系をブルートレインの範疇に含めるかどうかは、大いに議論の余地がありそうですが…。


この車両は、昭和47(1972)年3月15日、新幹線岡山開業のダイヤ改正で華々しく寝台特急としてデビューした…というのが史実ですが、実はこの14系、昭和46(1971)年の年末年始臨時列車として、何と東北系統の臨時「はくつる」「ゆうづる」として走っていた…というのは、ちょっとしたトリビアでしょうか。このとき、当時の国鉄本社は臨時の寝台特急を増発して帰省客を捌こうという意図を持っており、その意図に沿って14系が活用されたわけです。ちなみに、この年末年始輸送では、全国から20系の予備車をかき集め、臨時「あさかぜ」も運転しています。

そしていよいよ、明けて47年3月、14系は食堂車オシ14・A寝台車オロネ14を揃え、まずは以下の3列車に投入されます。


1 さくら 東京-長崎・佐世保
2 みずほ 東京-熊本
3 あさかぜ 東京-博多


これら3列車のうち、「さくら」は分割併合を伴いますから、14系本来の能力が遺憾なく発揮されていますが、後の2列車は必ずしも14系でなくとも…という内容でした。当時は「みずほ」の付属編成は長崎に達しておらず、逆に「はやぶさ」の付属編成が長崎に達していましたから、「はやぶさ」を置き換えては…と思えますが、この「はやぶさ」用編成は基本編成が3組必要ですから、車両数の問題で20系のまま据え置かれたのでしょう。「あさかぜ」は、あえて新車を投入して利用客にアピールしようとした戦略にとれます。


では、これによって押し出された20系はどうなったか。
もちろん退役などするはずがなく、全て新設列車に回されました。

まず、東京-宇野間の急行「瀬戸」を格上げした「瀬戸」、東京-浜田間の急行「出雲」を格上げした「出雲」に充てられます。さらに、「あかつき」「彗星」が各1本増発され、「あかつき」は3往復体制となり、関西ブルトレのさらなる充実が図られます。


その年の10月2日、日本海縦貫線の全線電化などを柱としたダイヤ改正が行われ、ここでも「あかつき」が1本増発、4往復体制になります。さらに従来20系だった「あかつき」1往復を14系に置き換えていますから、14系を使用する列車はさらに増えました。ここで捻出された20系も増発に回され、今度は大阪-新潟間の寝台急行「つるぎ」を格上げした「つるぎ」が登場し、常磐線経由の「ゆうづる」も1往復増発されています。


昭和47(1972)年の2度のダイヤ改正での増発によって、ブルートレインは合計20往復、583系列車を合算すると総数は32往復を数えるまでになり、まさに寝台特急の黄金期を謳歌することになります。そして、14系はブルトレ20往復のうち、実に3分の1近い6往復を制するまでに勢力を拡大しています。

この新鋭ブルトレは鉄道趣味界でも高く評価され、昭和47(1972)年度鉄道友の会ブルーリボン賞の栄誉に浴しています(東京駅同年9月30日発の『さくら』で記念式典を実施)。


14系は、乗客にも乗務員にも当局にも優しい、まさに画期的な新世代ブルトレでした。寝台幅の改善などにより乗客に優しく、自動昇降装置の採用などにより乗務員にも、そして分割併合など運用が柔軟に組めるため当局にも優しい、まさしく「よいことずくめ」の車両だったはずでした。

しかし、14系が晴れがましくブルーリボン賞の栄誉に浴したその1か月余り後の昭和47(1972)年11月6日未明、急行「きたぐに」の食堂車オシ17の床下から火災が発生し、最終的に死者30名、負傷者700名を超す大惨事となりました(北陸トンネル火災事故)。この事故により、急行列車の食堂車が全て外されたことはもちろんですが、ディーゼル発電器を床下に搭載している14系について、その安全性が問題視され、14系の増備は停止されてしまいます。それ以後のブルトレ客車は、内外装を14系と同一としつつ20系と同じ電源車方式に戻した24系が増備されることになります。

また、このころと相前後して、583系使用列車を含む寝台特急は、増発の一方で合理化の荒波に晒されることになるのですが、そのあたりのお話は次回することにいたしましょう。


その7(№426.)へ続く