その6(№368.)から続く


国鉄時代末期に登場し、JR発足後大量に増備された205系は、界磁添加励磁制御や回生ブレーキの採用、また軽量ステンレス構造の車体の採用などで、103系に比べて大幅な消費電力の節減をもたらし、かつ高価な電機子チョッパ装置を搭載せずにすむ点でも、201系に比べても大幅なイニシャルコストの削減をもたらしました。
しかし、この方式では、依然として主電動機が直流直巻電動機であり、この電動機の弱点であるブラシ・整流子の存在及びその保守の煩雑さなどはなお残っていました。

これに対して、交流誘導電動機が鉄道車両に使用できれば、保守の面倒なブラシも整流子もなく、メンテナンスフリーが実現できるはずなのですが、この電動機を鉄道車両に使用するには、スピードを制御するために電圧や周波数(交流なのでこれも制御しないといけません)を自由自在に制御できなければなりませんが、それは半導体技術のなお一層の進歩を待たなければなりませんでした。

一説によれば、既に1970年代からこの方式の採用が研究されていたようですが、実用化されたのは1980年代になってからのことです。これはやはり、半導体技術の進歩と軌を一にしています。この方式が採用された鉄道車両としては、昭和57(1982)年に熊本電鉄の8200形(路面電車)、2年後の昭和59(1984)年に大阪市交通局20系(第三軌条集電・地下鉄用)が誕生していますが、通常の鉄道線用の車両としては、昭和60(1985)年に登場した新京成の8800形が最初です。


国鉄でもこの方式の研究が進められていましたが、これは通勤電車に採用するためというよりはむしろ、北陸新幹線用の新型車両の技術として研究されていたものです(当時の研究はJR発足後、JR東海の300系やJR東日本のE2系に生かされている)。その研究の集大成といえるものが、昭和61(1986)年に世に出た207系900番代10連1本でした。
この車両は国鉄最初にして最後のVVVFインバーター制御方式の電車として特筆されるものですが、この車両の使用実績は必ずしも国鉄当局を満足させるものではなかったようです。期待したほどの粘着性能が得られなかったとか、6両あるM車が2両ずつ別のメーカーの電機品を使用していたため、電機品同士の相性が合わなかったこともあったようですが、最大の蹉跌は、イニシャルコストがあまりにも高すぎたことでした。これは、財政が逼迫しきった国鉄にとっては許容すべからざるもので、結局国鉄時代のVVVFインバーター車としては、この10連1本で終わってしまいます。


このときの207系900番代の蹉跌が、発足直後のJR各社にとって相当なトラウマになったのか、各社が競って投入した新型車両も、当初はこの制御方式のものはありませんでした。JR全社を見ても、最初に投入されたのは在来線ではなく、平成2(1990)年の新幹線用の300系9000番代で、在来線用はJR北海道の785系です。
ちなみに、JR西日本の通勤車は同じ「207系」を名乗ってはいますが、内外装もメカも全くの別物で、これを試作車・量産車の関係とみなすことは、恐らく無理があるのではないかと思われます。


国鉄がJRに移行したことに伴い、それまで全国一律で開発・製造・運用されてきた車両達も、その後は独自の発展を見せることになります。そこで、本記事では東日本における進化を概観し、次回において西日本及びその他の地域における進化を見ることにいたします。


首都圏の過密路線を抱えるJR東日本は、民営化当時、国鉄から承継した103系の両数は、実に2418両を数えました。これらの車両は早晩取り替え予定が浮上することから、いかにして低コストで置き換えをするかの研究を始めます。JR発足後しばらくは、205系のリピートオーダーで103系を置き換えますが、それでも完全淘汰には至らず、しかも前述のように主電動機の保守の問題は依然として残っていました。
そこで、主電動機の保守の呪縛を解放する交流誘導電動機を使用するVVVFインバーター制御方式を本格採用することを前提に、さらなるコストダウンを図った車両の投入を計画します。これが、「重量半分・価格半分・寿命半分」というコンセプトで、このコンセプトに則って製造されたのが、平成4(1992)年に世に出た901系(後の209系900・910・920番代)です。
もっとも、このようなコンセプトの車両は既に国鉄時代から構想があったようですから(鉄道ファン2008年2月号による)、ようやくその構想が結実したということなのでしょう。


この「重量半分・価格半分・寿命半分」のコンセプトについては、これまでにも散々語り尽くされてきましたし、当ブログでも取り上げたことがありますので(→ こちら )再論することはしませんが、日進月歩ともいえる技術の長足の進歩を鉄道車両に適切にフィードバックさせるためには、あまり長期間使いすぎるのもよろしくないということや、車両を軽量化すれば相対的に出力も増え、スピードアップや線路保守の軽減にもつながるということが考えられていたようです。
そして、この車両が世に出たことについて最も大きかったのは、自社内で車両を製造する工場を持ち、そこで一貫して生産する方式が確立されたことです。自社内での車両の製造は西武鉄道などに前例がありますが、こちらは新津(新潟県)に大規模な車両製作所を作り、そこで一貫して製造していることから、ある意味では西武よりも徹底しているといえます。


901系は良好な使用実績を残し、翌年の平成5(1993)年から量産車209系が京浜東北線に大量に投入されていきます。209系は京浜東北線だけではなく南武線にも投入され、さらに1000番代車が常磐緩行線に、3000番代が八高線に投入されました。東京臨海高速鉄道にも、兄弟車として70-000系が投入され、後の編成替えの際、余剰となった車の一部をJR東日本が引き取り、209系3100番代として使用しています。さらに、常磐線に投入されたE501系や、横須賀・総武快速線用のE217 系もこの車両の兄弟車といえます。
さらにその後、平成10(1998)年にはそれまでの技術の進歩を反映させた試作車(209系950番代。後のE231系900番代)が登場し、E231系などに発展していきます。


E231系の凄いところは、他の関東大手私鉄に多くの兄弟車を輩出していることです。ざっと挙げると、東急の5000系グループ、相鉄の10000系、小田急の3000形などです。このような動きについて、車両の画一化が進んで面白くなくなったとか、会社毎の個性がなくなったといって嘆く声がありますが(このような声は、愛好家ではない利用者から上がることが多い)、これはE231系の基本設計が優秀だったことの証左でしょう。

その後、中央快速線用にE233系が投入されると、小田急でこのE233系の兄弟車を導入しています(4000形)。


209系からE233系まで至る一連の車両は、「走るんです」などと一部の愛好家から酷評され、また関東私鉄の会社毎の個性を抹殺した元凶として忌み嫌う向きも多いようですが、鉄道会社は利用者を集めて利益を上げるために存在するもので、愛好家のために存在するものではありませんから、愛好家の願望としては格別、そのような声を鉄道会社に浴びせるべきではないと思います。むしろ、これらJR東日本の新型車両が日本の鉄道界に与えたインパクトの大きさの方を素直に評価すべきではないか。私は、そのように思います。

次回は、西日本の通勤車を中心に見て参りましょう。


-続く-