その5(№360.)から続く


国鉄技術陣の総力を結集した「省エネ車」201系。
実はこの車両、電気代は確かに101・103系より安いのですが、電機子チョッパ装置が高価すぎ、大量増備するにはイニシャルコストが大きすぎました。
折しも、当時は累積赤字が膨れ上がり、民営化が不可避になっていた時期でした。
そこで、国鉄は、103系より電気代がかからず、なおかつ201系よりイニシャルコストの小さい車両を開発します。

この「103系より電気代がかからず、201系より初期コストが安い」という命題を満たすためには、メカ面と車体構造の点で見直しがなされることになりました。


1 メカ面


前述のとおり電機子チョッパ制御は装置が高価ですので、それより安く上がる制御方式を開発しました。これが「界磁添加励磁制御方式」です(その具体的な説明は こちら )。これは電機子チョッパ制御よりも安価かつ従来の技術の延長線上にあるため、初期コストも小さく保守も楽というものでした。ただし、この界磁添加励磁制御方式は、直流電動機を使用するため、その弱点であるブラシの保守の問題は依然として残っています。
それでも、205系では後述のとおり、車体の軽量化などと相まって(主電動機の出力が同じなら、車体が軽い方が馬力が強くなる。馬力が強いなら電力は小さくてよい)、大幅な電気代の節減が実現しています。


2 車体構造


次に車体構造ですが、国鉄の電車としてはサロ95900以来のステンレス製となり、しかもサロ95900が外板だけのステンレス(スキンステンレス)だったのに対し骨組みまでステンレスで構成するオールステンレスカーとされました。オールステンレスカーとはいえ、第1世代といえる東急7000系や京王3000系のようなものではなく、構造計算を綿密に行って大幅な軽量化を実現した軽量ステンレス構造でした。この軽量ステンレス構造は東急車輌製造が開発したものですが、当時の国鉄が新車を発注するときは各車両メーカーに平均的に発注していましたから、この軽量ステンレスの技術を東急車輌製造以外にも公表する必要がありました。結局、東急車輌製造は205系の受注と引き換えに同業他社に軽量ステンレス構造のノウハウを公開してしまいますが、このあたり、工業所有権に関する国鉄の考え方はどうなっていたのかと思います。このあたりの顛末は、同社の社員だった土岐実光氏が自著「電車を造る」の中で触れています。せっかく独自に開発したノウハウを公開させられることには、土岐氏自身忸怩(じくじ)たる思いがあったようです。
ちなみに、国鉄時代のステンレスカーは、このサロ95900の他はキハ35900と関門トンネル用電気機関車だけです。これは、ステンレスカーのイニシャルコストが鋼製車よりも高かったことと、当時の労働組合が「塗装の仕事が減る」ということで強硬に導入に反対したからだといわれています。それが分割民営化間近になって、このような車両が導入されることになるとは、今にして思えば、当時の国鉄はそこまで切羽詰まっていたのかと感慨に耽らざるを得ません。


ともあれ、国鉄初のオールステンレスカーは、昭和60(1985)年、205系として世に出ます。
この205系、201系のブラックフェイスを受け継ぎつつも、行先表示が中央に移され、どことなく私鉄の雰囲気も漂うようになりました。側面も、最初の4編成こそ201系から戸袋窓をなくしただけの、野暮ったい形状だったのですが、その後の量産編成は1枚下降窓になり、さらにスマートさが増しました。
国鉄は、205系を山手線に集中的に投入していきますが、昭和61(1986)年、第34編成を投入した段階で中断され、結局JR発足まで103系が残ることになってしまいました。205系としてはそれで増備が終わったわけではなく、近畿圏向けに東海道・山陽緩行線用として7連が4本だけ投入されています。
ちなみに、この界磁添加励磁制御方式を採用した形式として、近郊形の211系が挙げられます。この制御方式は、もともとは211系のために開発されたものでしたが、世に出たのは205系の方が先でした。そういう意味では、211系は205系の兄弟車と位置づけることができます。この211系は、昭和61(1986)年3月から東海道線や東北・高崎線にデビューしますが、やはり113・115系を全面的に置き換えるには至らず、国鉄時代に製造されたものは少数にとどまっています。


昭和62(1987)年4月、国鉄が分割・民営化され、JR各社が発足します。
この時点では、山手線は103系が残っていましたが、JR東日本は民営化後すぐに205系の投入を開始し、翌昭和63(1988)年7月には、早くも103系を追い出しています。それから17年後の平成17(2005)年、205系もE231系に追い出されることになりますが…。

次にJR東日本が205系の投入線区に選んだのは、京浜東北線でも中央・総武緩行線でもなく、何と横浜線でした。横浜線は首都圏に放射状に延びる路線を相互に連絡する機能があって乗客も多い路線でしたが、車両は全て103系で、山手線や京浜東北線のお下がりでした。国鉄時代であれば路線の「格」のようなものを重視していた節がありますので、205系は間違いなく京浜東北線に投入されていたでしょう。横浜線投入完了後は埼京線に投入されていますので、当時の管理人は、このあたりでも民営化されて変わったという感慨を覚えたものです。


他方、西日本でも国鉄時代の基本設計をマイナーチェンジした1000番代を投入しますが、この車両の投入線区も東海道・山陽緩行線や大阪環状線ではなく、何と阪和線でした。阪和線は「東の常磐・西の阪和」といわれるくらい、他線区からトレードされてきた車両が集結していた路線でしたが、そのような路線に直に新車が投入されたことは、管理人にとっても大きな驚きでした。


ちなみに。
この205系が採用した「界磁添加励磁制御」という方式は、国鉄~JRでこそ多くの採用例がありますが、JR以外の私鉄ではあまり多くありませんし、その採用例も改造車がほとんどです。これは、当時の私鉄の方が先進的なメカを積極的に採用していたのに対し、国鉄は新技術の採用には消極的だった(又は標準化が極限まで進みすぎて新技術の採用が難しかった?)ことにもよります。

しかし、JR発足後205系が大増殖していった同じころ、私鉄各社は、既に直流電動機ではなくメンテナンスの要らない交流誘導電動機を使用したVVVFインバーター制御を採用していました。
このような動きに触発され、JRでも新技術の採用の検討に入ります。しかし、現実に形になって現れたものは、東日本と西日本とでは全く異なる形態だったのです。
次回は、東日本・西日本それぞれにおける通勤電車の進化の系譜をみていくことにします。


その7(№376.)に続く