出発前に、八重は毎朝お参りする近所の神社へ向かい、清吉宛の手紙を松の枝に結わいた。
手紙には、夫の命により登城し、藤丸様のお世話をすることになったが、決して清吉には迷惑を掛けないとの内容が記されていた。
陰で隠れていた清吉は、八重が屋敷へ戻ったのを確認すると、手紙を読んだ。
清吉も、大杉が焦っている様子が目に浮かんだ。
八重と藤丸の為に、清吉は何か事を起こす気でいた。
八重が城へ上がり、藤丸と面会した時、家老・加藤の三男が側にいた。
教養があり、凛々しく、八重は三男に良い印象を持った。
三男も、才色兼備の八重に良い印象を持つ。
この三男も藤丸の側にいて、藩主側の動きを探るようにとの父の密命を受けていた。
しかし、三男は父親と違い、品行は正しく潔癖な性格であった為、藩主の動きを探ることに苦痛を感じていた。
八重と会った事が、唯一の救いであった。
藤丸の方は数年も会わないうちに、立派な若に成長していた。
噂に聞く病弱な体とは違い、江戸帰りの三男から最新の知識を学び、剣術の修行にも怠ることなかった。
八重は、藤丸が無事に藩主として成長してくれることが希望であった。
どんなことがあっても成長を見届けなければと、改めて誓った。
それが、今は亡き娘・お雪の方と孫の藤千代の供養になると思うのである。
清吉は、天井裏から藤丸の様子を覗いていた。
加藤に買収されている侍女は、薬がすり替えたとは知らずに、毎日お茶にこっそりと入れていた。
藤丸の元気な様子に、侍女は少し焦りを見せて加藤に相談したが、加藤はこれは徐々に効く毒なので侍女にそのまま薬を飲ませ続ける様に言い渡した。
このまま、自分の細工に気付かずにいてくれれば、加藤側は動かずにいるので、こちらは楽だと清吉は思っていた。
数日が過ぎた頃に、藤丸に藩主からお呼びが掛かった。
早速、藤丸、八重、加藤の三男が、大広間へ行くと、藩主、城代家老・大杉と家老・加藤がいた。
その屋根裏には、清吉が隠れていた。
大広間の上座には、老中の使者がいた。
とうとう、藤丸と老中の娘との婚約について、幕府の許可が下りたのである。
これで、正式に婚約が成立した。
喜びに湧く一同。
その中で、突然藩主は、「婚約が整った所で、今年中にも藤丸を元服させ、藩主の座を譲る事にする。」と皆の前で宣言した。
一同は、驚きを隠せなかった。
清吉は、懸念した。
これは、こちらが事を起こす前に、加藤と大杉が事を起こすはず、そうなれば八重と藤丸に身の危険が迫るのは明らかであるからだ。
藩主の宣言に、何も相談を受けていないと反発する加藤であったが、大杉は驚きつつも藩主の意見に賛同した。
父親の狼狽振りを見て、恥ずかしいと思う三男であった。
大杉にとっては、藩主が替わっても、藩政が自分の手にあれば何も不満は無い。
八重は、夫の行動が心配であった。
だが、肝心の藤丸はこれを頑なに辞退した。
自分はまだ未熟者と言うことと、藩主はまだ若いので隠居はしないで欲しいと懇願した。
しかしながら、藩主は「隠居しても藤丸の後見人として何時でも相談に乗るから、心配致すな。藤丸はもう立派な嫡男であり、早く藩主になって貰いたい。」と言うのであった。
老中の使者のいる手前、藩主は意見を覆す訳にはいかなかった。
藩主の気持ちを察した藤丸は、丁重に藩主の意に従うと言った。
最初は反対だった加藤も、藩主の意に沿うと発言するしかなかった。
使者は、藩主の言葉を老中に伝えると約束して帰っていった。
今年といっても、残りあと半年余りしかない。
大急ぎで、準備が始まった。
加藤、側室お春の方、そして守り役が企む、藤丸を消して、息子・松千代を擁立させる動きが活発になった。
大杉側も、年内中の藩主交代を恙なく行われる様に、慌ただしく動いていく。
その最中、大杉の下に吉報が届いた。
ずっと探していた町人風で足の速い若者を知ってる者が、見付かったという報告であった。