こちらは、わが国最初の招魂社であります、
そしてこちらは、情熱の奇兵隊士、
山田鵬輔成功の招魂墓であります。
「志士の杜マップ・下関史跡めぐり
維新史跡探訪(志士の杜推進実行委員会発行)」
という本を読んでいましたら、
彼のことが書かれていました。
山田鵬輔は、熊毛郡三丘(現在の山口県周南市)の出身で、
宍戸氏の家臣でありました。
奇兵隊に入り、慶応2年(1866)7月27日、
豊前国鳥越千畳敷砲台に進入、壮烈な最期を遂げました。
この時、仲間の隊士、阿部宗兵衛は、鵬輔のもとに駆けつけ、
彼の首を切り落とし、それを抱えて本陣まで退却したそうです。
鵬輔先輩は、隊中でも勇猛の志士として知られていたようですが、
性格はといえば、感激しやすく、生来の粗忽もの、まあ、いわゆる、
おちょこちょいなキャラであったようでございます。
また、興奮すると、裸になって泣き出す癖もあったらしいのです。
(鵬輔先輩、あなたぁ、一体どんな人なんじゃ!!)
奇兵隊の陣屋でも色々あった事でしょうねえ・・・。
「おい!お前らぁ!見てみい!鵬輔がまた裸になったど!」
「またかぁ!おい、みんな見よれよ。
今 泣きはなえるけえのう(泣き出すからのう)。」
「お~お、あれを見い。泣きはなえた(泣き出した)、泣きはなえた!」
「まこと、鵬輔っちゅうなあ、面白い男じゃのう(笑)」
そんな鵬輔先輩は、その場を常に盛り上げる、
ムードメーカー的存在だったのではないでしょうか。
おそらく多くの仲間から愛されたことでしょう。
四境戦争で壮烈な最期を遂げた男、
勇猛の奇兵隊士 山田鵬輔成功。
そんな男が長州、奇兵隊の中にいたのでありました。
彼のお墓は、北九州市門司の赤坂墓地と、
下関市赤間町の本行寺にもあるそうです。