明治政府による竹島の閣議決定から島根県編入まで経緯 |
●1897年(明治36-7年頃)
隠岐の島民が竹島でアシカの群棲しているのを発見し、その5,60頭を撲殺して内地に持ち帰り、相当の利益を得た事から、隠岐島民の間で1903年から竹島でのアシカ捕獲競争が始まった。
しかし、乱獲の結果、アシカが絶滅する危険が出てきた。
●1904年9月25日
そのアシカの乱獲を防止するために、アシカ漁業を取り締まる必要が出てきて、漁民の一人、中井養三郎が、「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を内務、外務、農商務三大臣に提出し、同島を本邦領土に編入すると共に、10年間同人に貸し下げるよう願い出た。
●1904年(1904年)11月15日
政府は、明治37年(1904年)9月29日付の中井養三郎の出願を受け、島根県の意見を尋ねた。
島根県は、島根県は内務部長名で隠岐島司に、リアンクール島(竹島)を隠岐島の所管として差し支えないか、同島をいかに命名すべきかを照会した。
●1904年(明治37年)11月30日
隠岐島司は同島を隠岐島の所管とすることに異議がないことを回答し、竹島と命名することが適当だという意見を上申した
●1905年(明治38年)1月28日 閣議決定
政府は、これらの意見を基として審議して、
明治38年(1905年)1月28日、閣議決定して同島を島根県所属隠岐島司の所管として、竹島と命名し、その旨を内務大臣より島根県知事に訓令した
●1905年(明治38年)2月15日 島根県知事に訓示
日露戦争の最中に、明治政府は、島根県所属隠岐島司の所管とする事を決定し、「他国ニ於イテ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡」の無い無人島を竹島と命名した閣議決定を、島根県知事に訓示した。
北緯37度9分30秒東経131度55分、隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト称シ、
自令其所属隠岐島司ノ所管トス
●1905年(明治38年)2月22日、島根県告示第40号を公示
「島嶼ヲ竹島ト称シ、爾今本県所属隠岐島司ノ所管ト定メラル」と公示した。
こうして、日本海の絶海の孤島は竹島と命名され、島根県に編入された
●1905年(明治38年)5月3日
面積弐拾参町参拾参畝歩の官有地として土地台帳に掲載
●1905年(明治38年)4月
島根県は、漁業取締規則を改正して、竹島のアシカ漁を許可制とした。
●1906年6月
中井養三郎ら4名の出願を許可した。
なお、
1905年8月には、島根県知事松永武吉が、
1906年には島根県第三部長神田由太郎の一行が、竹島を実地に調査した
質問 竹島編入は「韓国に無断で」とか「ドサクサに紛れてこっそりとか」非難されるが? 答 的外れである。 官報で公示しているし、新聞にも報道された。 そもそも、国際法上は、竹島編入を周辺国への通告する事は効力の要件ではない。 国際法的に瑕疵は全くない。 |
質問 島根県に竹島が編入された時、韓国は外交権を日本に奪われていて抗議できなかったと言うが事実か 答 事実はまったく違う。韓国は抗議が出来たのにしていない。
同じ年の1905年8月12日の第二次日英同盟第三条の条文について、大韓帝国の朴斉純外相はこれを非難し、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している。
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◆竹島の緯度経度が明示されている-------島根県告示 ◆どの島を指すのか不明確である-----------大韓帝国・勅令第41号 |
●島根県告示1905年2月22日
島根県告示第四十号 北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島を距る西北八十五浬に在る島嶼を竹島と称し自今本県所属隠岐島司の所管と定めらる。 明治三十八年二月二十二日 島根県知事 松永 武吉 |
●大韓帝国・勅令第41号 1900年10月27日
(※石島は緯度経度の明示なく、どの島を指すのか不明)
大韓帝国・勅令第41号 鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件 第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること 第二条 郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること |
【島根県告示第40号】 【大韓帝国・勅令第41号】