人気ブログランキングへ
ランキングに参加しています。まず初めに何卒クリックをお願い致します。


前置きはこちら→ 現代日本版『哲学者と法学徒との対話』への反論


学生「先生、先ほど、僕の大学のゼミの先生に、真正護憲論(新無効論)について色々とお伺いしたんですが、法学的には完全な誤りで、そんなものは憲法論として通用しない、って言われたんです。。

で、僕も真正護憲論が正しいとは思ってるんですが、大学の先生にあそこまで完全に否定されてしまうと、何だか自信がなくなってきちゃって・・・」


法律家「ふむ、君の大学のゼミの教授といえば、あの阿呆で有名なバカ教授だったな・・・」


学生「いや先生(笑)、そんなにおっしゃらなくても・・・それに、先生の眼からすればそうかも知れませんが、僕からすれば、いちいち正しいことをおっしゃっているように思えたんです。

ですので、今日は一つ、先生のお話を聴いて、もう一度自分の考えを整理してみたいと思いまして・・・」


法律家「いや君、阿呆を阿呆と言って何が悪いんだね・・・だって事実じゃないか。まあそれはともかく、君の聞いてきた話というのをここでしてみたまえ。これからゆっくりと解説していこう。」


学生「まず先生、お伺いしたいんですが、大学の先生にも聞いてみたんですが、まず僕は、我が國がGHQによる占領中にハーグ陸戦法規に違反して占領憲法が「制定」されたこと、また、大日本帝國憲法の第73条や第75条という、改正手続規定に反していることから、改正は違憲無効である、というようにお話したんです。

そしたら、大学の先生曰く、それは憲法学や法概念論からすれば、完全な誤りだよ、と言われてしまいました。本当にそうなんでしょうか?」


法律家「まず、憲法学そのものの定義から入らねばならないね。いわゆる憲法学というものには、大きく分けて、二つの大きな学派があることを、これはもう基礎の基礎の知識として知っておかねばならない。

すなわち、立憲主義(法の支配)に立脚する「正しい」憲法学と、人定法主義(法治主義)に立脚する似非憲法学、自称憲法学だが、憲法学でもなんでもないもの、この二つがあるんだ。


学生「それは初めて聞きました・・・だって、大学の先生は、そんなことは一言も教えて下さいませんでしたし・・・憲法学といえば、一つしかないのではと思っていましたが・・・」


法律家「どんな学問にも言えることだが、必ず学説というものはあるよね。一つだけの考え方しか成り立たない、ということなどはない。

ただ、そこで問題となってくるのが「価値判断」だ。憲法学のみならず、ひろく法律学においては、この価値判断がとても重要になる。」


学生「なんだかおっしゃることが難しくなってきましたね」


法律家「使っている言葉が聞き慣れないだけで、何も難しいことはないよ。法律学というものは、我々の生活、國などという、生きたものに関わるものだ。感覚で捉えることができるものが、法律学の対象なんだよ。

つまり、「何のため」にその学問体系が組み上げられていくのか、何を大切な価値として守るべきなのか、という考慮、これを「価値判断」というのだが、憲法学を含む法律学では、この価値判断への考慮が不可欠なのだよ。

我々が大切にして守らねばならないものは何だね?」


学生「先生、それは紛れもなく、國體(日本人らしさ)ですよ! これを守らずして、いくら外敵から國を守り得ても、我々が日本人らしさを失ってしまったら何の意味もないじゃないですか!」


法律家「そうなのだ。ということは、「正しい」憲法学とは、「國體を護持する」という価値判断を目的として、組み上げられた理論に立脚せねばならないのは自明の理である。それ以外の考え方(理論)も考えとしては成り立つが、「成り立つかどうか」と「正しいかどうか」は全く別の問題だ。

ひょっとして、その阿呆教授は、これを混同しているな?はっきり言うが、彼には法律学の初歩も分かっていないな。」


学生「いや、先生、そこまでおっしゃらなくても(笑)。。でも、他の先生方だって同じですよ。憲法学の先生で、國體を守ることを憲法学の目的だとされている方はいらっしゃいません。」


法律家「皆が言わないからといって、それが間違っていることにはならないのは当然のことだよね。歴史的に考えてみ給え。我が國は、古来、如何なる為政者といえども、「道理」或は「天下の御政道」などといわれる不文の規範に従い、政治を行ってきたのだ。

たとえば、聖徳太子にせよ、北条泰時にせよ、自分の勝手や独創で、『憲法十七条』や『御成敗式目』を制定したわけではない。それらは、それまでの道徳や慣習、伝統などを成文化し、制定されたものに過ぎないのであって、彼らの勝手で、彼らの独創で作られたものではないのだ。このことを、北条泰時自身もはっきりと述べているよね。」


学生「なるほど、我が國においては、近代以前は、現代の法律学の主流となっているような人定法主義(為政者や議会の多数決で如何なる内容の成文法でも制定できる)ではなく、道徳や慣習、伝統などに従って立法、行政などを行っていたわけですね。」


法律家「そうなのだ。それが我が國古来のやり方であった。國體(日本人らしさ)を守るには、そのやり方によらねばならず、正しい憲法学とは、そのようなやり方、現代風にいえば立憲主義(法の支配)に基づくものでなければならないのだ。」


学生「なるほどです。でも、近代憲法学では、このようなやり方は採られていないのですよね。。今は、憲法学といえば、道徳や慣習、伝統などを捨象したいわゆる「國民主権」「基本的人権」などを基礎にしたものが主流となっているようですし・・・」


法律家「やはり、現代のいわゆる『憲法学者』どもはウソと妄言しか教えないようだな。そんなものは、現代の憲法学の主流でもなんでもないよ。

たとえば、イングランドはどうだね。彼の國は不文憲法の國と言われているね。そして、『マグナ・カルタ』にせよ、『王位継承法』『議会法』にせよ、彼らの道徳や慣習、伝統などのいわゆる不文憲法の一部を成文化したものであって、それゆえにそのそれぞれが憲法典とされているのだ。

また、イングランド人古来の法を成文化したものである、アメリカ合衆国憲法も同じ理念の下に制定されたものである。だから、アメリカ合衆国憲法には、「基本的人権」「國民主権」などの言葉すらないのだ。このようなことも、憲法学者どもは教えない。

教えてしまうと、自分たちが独断で偏向的に教えている人定法主義の似非「憲法学」とは全く別の、本当に國體を守るのに適した「憲法学」もあるということがバレてしまうからだ。

もちろん、彼らの「國體」と我々日本人の國體とは全く異なるのだが、それぞれの國民の道徳や慣習、伝統などを守るため、如何なる立法、行政、司法もこれに反してなされてはならないという立憲主義(法の支配)の原理が我が國でも古来、行われていたことは歴史的な事実である。

これらを無視して、立憲主義(法の支配)による憲法学ではなく、人定法主義(法治主義)による憲法学しかこの世に存在せず、國體論などは憲法学とは無関係である、などと平気で言い放つ学者は、「英米憲法学は憲法学ではない」と言っているのと同じだし、或は我が國の伝統的な立法や行政のやり方などを無視して、まるでなかったこととしているのと同じだね。

学者として、非常に良心を欠いたものだと言わざるを得ない。」


学生「なるほどです。。。憲法学では、法律学では、そんなものは認められない、などと大雑把に言い放つ人に対しては、その人がどちらの憲法学に立って発言しているのか、見極める必要がありますよね。」


法律家「そうなのだ。今まで述べたことを言わずに、憲法学では・・・などという者は、初めから印象操作を仕掛けていると思った方がいい。

さて、今までは一般論で、ここからいよいよ、各論に入っていこう・・・・」


続きはこちら→ 『法律家と学生との対話(2)』言葉の定義と法体系