奥山篤信の映画批評63 イラン映画「別離 A Separation」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

奥山篤信の映画批評63 イラン映画「別離 A Separation」

~失われた高等な人間の情念と倫理 これがイランに見出せる皮肉さ~
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常々感心するのはイラン映画のレベルの高さである。アッバス・キアロスタミ、 マジッド・マジディ、 モフセン・マフマルバフなど世界に通用する高質の映画を生みだす。そこには欧米をはじめ世界で失われている物質主義とは異なる人間の心をえぐり出すからである。

この映画は昨年の第61回ベルリン国際映画祭で満場一致で最高賞である金熊賞と、女優賞、男優賞の2つの銀熊賞の計3部門で受賞そして本年第84回アカデミー賞では外国語映画賞を受賞した。


ファルハーディー監督(兼脚本家)は「彼女が消えた浜辺 ABOUT ELLY」にて日本で注目を浴びたが、この映画ではさらにそれに上回る力量を発揮している。

テヘランに住む中流の上クラスと思われるナデルとシミンは14年来の夫婦で、11歳の娘テルメーと三人暮らしである。


シミンは娘の教育上海外に移住したい希望を持ち政府許可を取ったが、夫はアルツハイマー型認知症を患う父のケアーは絶対だという理由で頑としてこれを拒否、妻は家庭裁判所に離婚許可を申請するが、却下される。その場面が冒頭描かれる。

妻に去られナデルは父の介護のためにラジエーという娘もちの貧しい女性を雇う。彼女は性格破綻した失業中の借金を抱えた夫ホッジャトがいた。


ある日、ラジエーはナデルの父をベッドに拘束し、“ある用事”で外出した。突然帰宅したナデルと娘テルメーは床に転げ落ち意識不明の父を発見、あわやと言うところで事なきを得た。

怒り狂ったナデルは、帰ってきたラジエーを怒鳴りつけて、その無責任を詰りさらり泥棒呼ばわりした上ラジエーを玄関から力づくで押し出した。ラジエーは階段を転倒しその夜病院に運ばれ流産してしまう。

物語はこの胎児殺害容疑で告訴されたナデル、そしてナデル家族の葛藤などを描いている。そこには謎解きのような面白さ、そして人間の“嘘”や“誇張”などがきめ細かく錯綜しながら、見事に一本一本の糸を紡ぐように映画は大団円を迎える。

この映画で娘テルメーの役柄の意味合いは大きい。最後離婚訴訟裁判所は離婚を認め、娘がどちらの親を選ぶか決断をせまるが、テルメー(今まで暗かった表情が初めて見せる朗らかな笑顔が気になるところだが)はどちらを選んだのか、この監督が前作と同様余韻を残す、また観客の想像力に任せる見事な手法である。

日本の諺に<風が吹けば桶屋が儲かる>があるが、ある事象の発生により一見すると全く関係の無いような思わぬ所・物事に対して影響が出ることの喩であり、この映画の筋書きにアナロジーするのはややニュアンスは異なるが、要するにこの映画で起こる一連の事態は<妻が家を出ていった>という事象が、色々分枝のように様々な影響ももたらす、しかし描かれている人物はそれぞれ何の悪意もない善良な人々なのである。

訴訟と言う憎しみの権化のぶつかり合いのなかで“嘘”や“誇張”や"庇い“などで真実が判らなくなるのだが、そんな状態の中でも、それら人々の正義感・信仰心・そして名誉を重んじ”恥“の精神を持つイラン人の高潔さが溢れている。

果たして現代の日本人にかっての高潔さは残滓でもあるだろうか?”恥“知らず、名誉や誇りの皆無、<目に見える>物欲・金欲の世界の中で<目に見えない>神を畏れぬ世界、政治家から財界・官界などリーダーたるものに、そんなものはひとかけらも見かけないのが日本の現状である。

ファルハーディーにとっては金熊受賞は寝耳に水であり<祖国の人々のことを思うとてもよい機会だ>と述べイラン映画界は「イラン映画界は受賞を誇りにしている」と歓迎した。


第84回アカデミー賞では外国語映画賞を受賞、授賞式でファルハーディーは<この賞を祖国の人々に捧げる。あらゆる文化・文明を尊重し、敵意と憎しみを嫌う人々だ>と述べた。イラン政府は受賞を「シオニスト政権の映画に対する勝利」として報じた政治的影響すら与えた。

月刊日本6月号映画評より
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「甦れ美しい日本」  第1191号



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