護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

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◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 610」
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さて、K・カール・カワカミ氏の「シナ大陸の真相」を読み解いてきたが、訳者の福井雄三氏の「訳者あとがき」も示唆に富んである。

 

 

「日米開戦」はなぜ避けられなかったのか?と言うテーマにふさわしいと思うので、再録しておくことにする。

 

 

 戦後、真珠湾攻撃に至る経過からみて、戦略なき軍部(この場合は海軍)を非難する書物が多い。

 

 

確かに、知米派と言われた山本五十六が立案した作戦にしては、戦略ではなく、戦術に過ぎないから、それは一部正しいと思う。

 

 

しかも、ルーズベルトによる情報統制で、米軍部はツンボ桟敷に置かれていたため、日本海軍の「奇襲」が成立したのであり、決して作戦計画が緻密だったわけではない。

 

 

 逆に、ワシントンの日本大使館の怠慢で、通告が1時間半も遅れたのだから、日米開戦に反対していたハミルトン・フィッシュでさえもルーズベルトの宣戦布告に賛成したのだから、如何に大使館の“怠慢”によって生じた「スニークアタック」が米国民を一致団結させるのに有効であったか、がよくわかる。

 

 

 山本大将は、米国への通告遅れを非常に気にしていたとされているが、それ以前に、近衛首相に戦争遂行について見通しを問われた時、「半年か一年は…」と非常に無責任な答えをしていたのだから、通告遅れが彼にとっての免罪にはなるまい。

 

 

 つまり、外交と軍事は密接不離な関係にあるのだから、山本はまず「外交上の問題について」率直に近衛に進言すべきであったろう。

 

 

「国力の差から日米開戦は絶対にしてはならない」と言う進言を。そしてまず「外交によって何とか打開すべき」を解くべきであった。

 

 

外交が行き詰った場合に剣を振るうのはやぶさかではない、との決意を込めて。

 

 

しかし、それでは日に日に減少しつつある海軍にとって死活問題である石油に気を奪われていたから、海軍としては石油の残量を基準に、日米開戦の日を逆算していたように思える。

 

 

この時点では、ルーズベルトの意志は固かったにせよ、外交力と、広報宣伝の活用によって、米国民に日本の立場を知らしめる可能性は閉ざされていなかったのだから、外交による日米間の調整は可能だったと思われる。

 

 

何よりも米国は世論重視の国である。その意味からも、カワカミの進言は視野が広く、説得力が大きかったし、彼を師と仰ぎ、全米各地で講演活動を継続していた斎藤博大使の活動も高く評価されなければなるまいと私は感じる。

 

 

訳者の福井氏も彼の努力を高く評価するとともに、その努力が報われなかったことを痛切に残念がっている。

 

 

この著書が『シナにおける日本』(Japan・in・china)という原タイトルで、ロンドンの書店から英文で出版されたのは一九三八年三月のことである。

 

 

時あたかもヨーロッパ大戦の始まる前年であり、さらに又日本が世界中から非難を浴びたシナ事変の泥沼に足を踏み入れてから一年目に当たり、まさに世界が迫り来る嵐の予感に脅えながら、不安と緊張の暗雲に包まれ始めていた時期であった。

 

 

このような時期において著者のK・カール・カワカミ氏は、世界大戦の破局を回避すべく、日本の置かれた立場を世界に訴えるためにこの本を書いたものと思われる。

 

 

シナ事変と満洲事変は表裏一体のものだが、日本がシナにおいてとっている行動は決して侵略と破壊を目的としたものではなく、東亜の秩序を確立し混乱を収束するためのものなのだ。

 

 

日本は国際法に従って忠実に行動しているだけであり、欧米列強と事をかまえる意図など少しも無い。

 

 

著者のK・カール・カワカミ氏は当時のアメリカ言論界における重鎮的存在であり、日系アメリカ人として祖国日本の立場を代弁すべく、これらの諸点を繰り返し訴えながら、世界の日本に対する誤解を修正するための努力を傾けた。

 

 

ただしそれはあくまでも単なる身びいきの立場からでなく、当時の国際情勢と国際政治力学を冷静に見据えた上で、各国の収り得る具体的な解決策を追求している点において、この著者は極めて冷徹なリアリストと言ってよいであろう≫

 

 

冒頭でも書いたはずだが、この様な貴重な文書が、当時の日本の政軍学界に知られていなかったことが不思議でならない。

 

 

この本の存在について、冒頭の序文で小堀桂一郎氏が「嵐に書く――日米の世紀を生きたジャーナリストの記録(昭和62年、毎日新聞社)」によって初めて知ったと書いていることから判るように、戦争が終わってから知られたのであり、結果的にはカワカミ氏の努力は無為に終わったのである。

 

 

而も昭和62年に、古森氏が出版しなかったならば、小堀氏も知ることはなかったのだから、貴重な証言は歴史の闇に葬られていた筈だ。

 

 

カワカミ氏の遺言?は、日米開戦阻止には役に立たなかったかもしれないが、世界情勢が混とんとしつつある中、未だに国家防衛の戦略さえ構築していないわが国にとっては、貴重な示唆に富む文献であることには変わりない。訳者は書く。

 

 

≪著者の政治外交史に関する知識は詳細を究めており、様々のルートを通じて入手した秘密外交文書とも併せて、当時の極東情勢、ひいては世界情勢を知る上での第一級品の資料と言ってよい。

 

 

この本は英語版が出た直後にフランスでも翻訳出版され、欧米社会で反響を呼んだが、著者の平和回復にかけた願いも空しく、世界は第二次大戦に突入してしまった。

 

 

だがしかしあの当時のあの状況の中で、平和にかける日本の最後の願いをこめて出版された本、という意味においてこの著書は、後世の歴史家による後知恵や粉飾とは無縁の、まさにリアルタイムの歴史的価値を持つ本と言えよう≫

 

 

全く同感であり、であるが故に我が国を取り巻く危険な情勢を如何に回避するか、と言う点で、この資料と斎藤大使の活動を生かすように活用しなければならないと痛感する。

 

 

とりわけ外交官には必読の書ではないか?。(元空将)
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        地球史探訪: ブラジル日系移民、一世紀の苦闘

 日系移民がブラジルで尊敬される地位を獲得するまでには、日本人の「根っこ」に支えられた苦闘の物語があった。

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■1.「ブラジルでは日系人は人口の1%しかいないのに、大学生は10%も占める」

 筆者がアメリカに留学していた時に、ブラジルから来た留学生から「ブラジルでは日系人は人口の1%しかいないのに、大学生は10%も占める」と聞いて、嬉しく思った事がある。

 たとえばサンパウロ大学は、ブラジルのみならずラテンアメリカ世界での最難関大学であり、多くのブラジル大統領を出しているが、そこでの日系人学生は14%を占めている。

 筆者が嬉しく思ったのは、日本人が優秀だ、という事ではない。ブラジルに移住した日本人も、親は子のために尽くし、子もその恩に応えて頑張る、という日本人らしさを発揮しているのだろうと想像したからだ。

 私自身も一度、ブラジルに出張して仕事をした事があるが、多くの日系人社員が企業の幹部を務め、その誠実さと有能さは、日本からの駐在員に勝るとも劣らないと実感した。ブラジル国内でも日系人はいまや社会的に尊敬されている。

 親が子を思い、子が親の恩に応えるという、いかにも日本人らしい成功物語が地球の裏側で展開されたと私は受け止めていたのだが、それがいかに浅薄な理解であるかを、深沢正雪氏の『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』[1]を読んで知った。

 深沢氏は長らくサンパウロ市の邦字紙「ニッケイ新聞」の編集長を勤め、この本でも現地で集めた多くの史実を紹介している。

 

それらを通じて、ブラジルの日系移民が今日の地位を得たのは、一世紀もの間、幾多の苦難を乗り越えてきた苦闘の結果である事がよく分かった。

 そしてその苦闘ぶりにこそ、日本人らしさが現れていることも。


■2.出稼ぎ

 日本からブラジルへの移民は明治41(1908)年に始まり、戦前戦後を通じて25万人にのぼるが、その半分以上にあたる13万人が1926年から1935年までの10年間に集中している。

 これは大正12(1923)年の関東大震災、昭和5(1930)年から翌年にかけての昭和大恐慌という国内の経済的困窮に迫られたこと、国外からは大正13(1924)年に米国で排日移民法が成立して道をふさがれ、ブラジルが新たな移民の受入れ先になったことによる。

 しかし、1934年にはブラジル政府が日本移民の入国制限を始め、またそのころには満洲が新たな移住先となっていたことで、ブラジルへの移民は激減した。

 

ブラジルへの移民は自由な選択というよりも、国内の経済的逼迫と国際政治の風向きによって、やむなく新天地を求めた、という側面が強かったようだ。

 したがって戦前の移民20万人のうち、85%は何年かブラジルで働いて金を貯めたら、帰国しようとする出稼ぎ意識でやってきたのである。


■3.日系移民の苦難

 しかし移民がたどり着いたブラジルは、豊かで平和な新天地とはほど遠かった。

 ブラジルは土地も肥沃で日本の日雇い労働者の2倍も稼げるという話に惹かれてやってきたのだが、大規模コーヒー農園で働いても、低賃金から食費を引かれるとほとんど残らない。

 

 

やむなく自力で低湿地を切り開いて米を作り始めても食べるのに精一杯、雨期には蚊が大量発生してマラリアの病魔に襲われたりもした。[a,b]

 社会的にも「かつてのブラジル人エリートは常に人種差別者だった。ブラジルが発見された当時、下等民族とみなされたインディオが大量虐殺され、黒人は動物,商品として非人間的な扱いを受け、その次は移民、特にアジア系移民が標的にされた」と評される有様だった。[1, p255]

 政治的にも不安定で、1924年には6千の革命軍が20日にわたってサンパウロ市内を占拠し、それを3万の政府軍が包囲して激戦を展開する、というような物騒な国だった。

 言葉も解さず、政治力も持たない日本人移民は農村に散在していたが、革命軍の敗残兵は格好の餌食としてそうした植民地を襲って、略奪を行った。

 

移民たちは結束して銃撃戦を繰り広げて自衛したが、無残に撃ち殺される人々も少なくなかった。

 そんな苦難の中でも、日本語学校が集団地ごとに作られ、戦前だけで500校近くあったという。ブラジルで生まれた子供たちも、やがて日本に帰った時、普通の日本人としてやっていけるように、という親心からだろう。

 日系移民たちは互いに助け合って、共同体として生き延びるしかなかった。そんな共同体を支えたのが、勤勉、誠実、正直という日本人の「根っこ」だった。

 

そして苦難の中で生き抜くことで、日本人の根っこは移民たちの心の中で、より太く、深く成長していったのではないか。

 そうした勤勉さで成功した移民の中からは、大農場や工場、貿易会社を営む人々も現れるようになった。


■4.日系移民への弾圧

 1930年に軍事クーデターを成功させたヴァルガスが大統領となった。ヴァルガス独裁政権はブラジルでのナショナリズムの高揚を狙って、初等、中等教育でのポルトガル語以外の外国語の学習を禁じた。

 

1938年にはブラジル全土の日本語学校が閉鎖され、1941年には日本語新聞禁止令によって全邦字紙が停刊となった。

 1941年12月、大東亜戦争が勃発すると、日系人が築いてきた大規模農場、商社、工場などの資産が差し押さえられた。日系社会の指導者層が検挙され、拷問を受けた。

 1943年7月に、サンパウロの外港・サントス港沖でアメリカとブラジルの汽船合計5隻がドイツの潜水艦によって沈められると、日独伊の移民に対して24時間以内にサントス海岸部からの立ち退きを命ぜられた。

 

日系移民も女子供老人に至るまで手回り品だけをもって、移民収容所まで歩かされた。

 その当時の人々の心境を、移民画家・半田知雄氏は次のように描いている。

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 多くのものが警察に拘引され、留置場にたたきこまれ、ときには拷問されたという噂があり、不安がつのればつのるほど、この状態を脱出するための未来図は、東亜共栄圏内に建設されつつあるはずの『楽土』であった。

民族文化を否定され、そのうえ日常生活のうえで、一歩家庭をでれば、戦々恐々として歩かねばならないような息苦しさに、ブラジルに永住する心を失った移民たちは、日本軍部が約束した共栄圏のみが、唯一の生き甲斐のあるところと思われた。[1, p64]
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■5.勝ち組と負け組

 1945年8月14日(時差により日本時間とは一日ずれる)、祖国敗戦の報がもたらされた。いつかは帰国すると願っていた移民たちにとって、敗戦は帰る場所が無くなってしまう事を意味した。

 その心理的抵抗に加えて、「天皇の神聖な詔勅が、ポルトガル語で新聞にでたというのが、すでにおかしい」とか、「20万同胞の在住するブラジルに、正式な使節が派遣されないという理由はない」と多くの人々は考え、実は日本が勝ったという噂が広がった。

 

移民の7、8割がこれを信ずる「勝ち組」に属した。

 一方、移民社会のリーダーたちは、戦時中の検挙や資産差し押さえに懲りて、ブラジル政府を恐れ、敗戦を受け入れて「負け組」となった。

 

彼らは勝ち組がやがてブラジル政府批判を始めて、自分たちはその巻き添えを食うという心配から、勝ち組を抑えにかかった。

 戦前には大日本帝国の国威発揚を説いていた指導者たちが、手のひらを返すように敗戦を説き始めたことに、勝ち組の人々は裏切られたと感じた。

 

負け組からは「負けたんだから、もう日の丸はいらない」などという発言まで飛び出したという。


■6.「日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです」

 負け組の筆頭と目された脇山甚作・退役陸軍大佐は勝ち組の若者4人に暗殺された。実行犯の一人、日高徳一はこう語っている。

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 僕等はなにも勝った負けたのためにやったんじゃない。あくまで日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです。脇山大佐には申し訳ないが、彼個人になんら恨みがあったわけではない。[1, p176]
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 日高はすぐに自首して、牢獄島で2年7ヶ月を過ごしたが、その後、官選弁護士からは「目撃者はいない状況では犯罪は成立しない」から釈放だ、と言われた。

 

日高は「それは違う。人の家庭をグチャグチャにしたんだから、こんなことで釈放では大義名分が通らない」と言い張り、約30年の量刑を言い渡された。

 結局、10年で釈放されたのだが、「日本人が普通の生活をしていたらそれだけで模範囚ですから、どんどん刑期が短縮されちゃうんですよ」。テロリストですら純真な日本の心根を持っていた。

 こうした事件を機に、ブラジル官憲が勝ち組と見なした3万人以上、すなわち在留邦人の7人に一人が取り調べを受けるという捜査を行った。

 

その中では、「御真影(天皇陛下の写真)を踏んだら、留置所から出してやる」と言われた移民もおり、それを拒否しただけで監獄島に送られる、という弾圧も行われた。


■7.「日本を愛する心を子どもに植え付けるために」

 戦後、4、5年も経つと「戦争は終わり、日本は負けた。でも日本は残っている。引き揚げ者であふれ、食糧難の日本には帰れる場所はない。

 

それに、子供はブラジルで大きくなってしまった。ブラジルに骨を埋めざるをえないのか」という諦めが広がっていった。

 しかし、その諦めをバネにして「ここで子供にしっかりと勉強させて良い大学にいかせ、社会的に立派な立場にさせよう。

 

そうすることで戦争中に自分たちをバカにしてきたブラジル人を見返さなくては」という志につながった。サンパウロ大学を「ブラジルの東大」と呼んで、親は身を粉にして働き、子供を送り込んだ。

 勉学ばかりでなく、「日本を愛する心を子どもに植え付けるために日本語教育に力を入れよう」と考え、日本語教育や日本文化継承に全身全霊を捧げた人々も現れた。

 拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』でも、江田島の旧海軍兵学校を訪れた17歳のナタリア・恵美・浅村さんが、英霊の心を偲んで書いた「げんしゅくな気持ち」という一文を紹介した[c, p201]。

 ナタリアさんは、サンパウロ市の松柏(しょうはく)学園の生徒で、この学園は2年に一度、2,30人の生徒を日本に送り、生徒たちは約40日をかけて沖縄から北海道までを回っている。

 地球を半周する飛行機代と40日もの宿泊費は送り出す親にとって相当な負担であるが、「自分のルーツに誇りを持ってほしい」「美しい日本を見てきてほしい」という日系人父兄の切なる願いが40年にもわたる使節団の派遣を支えてきたのである。

 このように祖国は敗れ、帰国も絶望的になったという境遇の中でも前向きな精進を続ける所に、日本人の根っこからのエネルギーが発揮されている。



■8.「我々は日本語や日本文化の灯を絶やさなかったから生き残った」

 深沢氏は勝ち組系の二世長老から聞いた次のような発言を紹介している。

__________
 戦後、認識派(JOG注: 負け組)の子孫はどんどんコロニア(JOG注: 日系人社会)から離れ、同化して消えていったが、我々は日本語や日本文化の灯を絶やさなかったから生き残った。そして、むしろそれが評価される時代になった。[1, p77]
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 日本人としての「根っこ」を失えば、圧倒的多数のブラジル人に同化吸収されてしまう。逆に日本語や日本文化の根っこを大切に育ててきた人々は、ブラジル社会に独自の貢献ができ、それが評価される。

 ブラジル法学界の権威である原田清氏は編著書『ブラジルの日系人』の中で「ニッケイは日本人の魂をもってブラジル人として振る舞う」人々で、「本国ではもう見られないような(伝統的な)日本文化をわかちがたい絆として引き継いでいる」と書いている。

 深沢氏が「どんな伝統的な日本文化が次の世代に継承されるのか」と原田氏に問うと、「勤勉、真面目、責任感、義理、恩、礼などが残ると思う」と答えた[1, p76]。

 これらの徳目こそ、日本人の根っこそのものだろう。本国・日本では占領軍とその後の左翼思想による歴史の断絶によって、我々の根っこがほとんど断ち切られてしまったが、ブラジルの日系人は意図的な努力で根っこを太く深く伸ばし、そこから湧き出るエネルギーによってブラジル社会で称賛される地位を築いたのである。

 ブラジルの日系人の苦闘の物語は二つの事を我々に示してくれている。

 第一に、日本人の根っこは、ブラジルという異境の大地においても、しっかりと太い根を伸ばし、立派な幹を育て、美しい花を咲かせたことだ。

 

 

この事実は、日本人の根っこが世界に通用する普遍性を持っていることを示している。いまや世界各地で暮らし、仕事をしている在外邦人にとって貴重な示唆である。

 第二に、ブラジルの日系人が、日本人の根っこからのエネルギーによって苦難を乗り越え、その過程でまた根っこを太く深く伸ばした事である。

 

 

これは防衛、経済、少子高齢化など多くの苦難に直面している日本列島に住む日本人に希望を指し示している。

 現代の日本人全体にこのような貴重な教訓を示してくれた在ブラジル同胞の一世紀の苦闘に深甚の敬意と感謝を捧げたい。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(396) ブラジルの大地に根付いた日本人(上)
 家族のために「大儲けして、一日も早く広島に戻らんといけんなあ」と二人はブラジルに出発した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog396.html

b. JOG(397) ブラジルの大地に根付いた日本人(下)
  ブラジルの大地に残した「ジャポネース・ガランチード」(日本人は保証付き)の足跡
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog397.html

c.  伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人が知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 深沢正雪『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』★★★、無明舎出版、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4895446247/japanontheg01-22/


■編集長・伊勢雅臣より

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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1586回】  
――「正邪の標準なくして、利害の打算あり」――(徳富25)
  徳富猪一郎『七十八日遊記』(民友社 明治39年)


 徳富は続ける。
 「支那人に於ては、言と行とは、丸るて氷炭相容れさる慣習」であり、「彼等には兩樣の世界」がある。

 

 

1つは「形式の世界」であり、そこに「彼等の假我」が存在する。

 

 

残る1つが「彼等の眞我」を宿す「實地の世界」だ

 

 

彼らは自らの体内に「假我」と「眞我」とを同居させているから、矛盾する言動であっても「罪惡とも感せす」、また「毛頭其の自覺か」ない。

 

 

その姿はまるで「墮落僧か、法衣を著け、佛壇に向ては、殊勝に念佛し。扨て其の法衣を脱すれは、乍ち修羅道の人間に化するか如く」である。

  かくして「形式の上には、孔言、堯語、禹歩、舜趨、洵に立派な樣なれとも、其の眞我を發露するに至りては、利得一遍の俗物に外ならす」。

 

 

つまり彼らはなんの罪悪感もなく「假我」と「眞我」とを使い分ける「利得一遍の俗物」ということ。

 

 

だから共産党幹部になって不正蓄財をしよう、である。つまり言行不一致のどこが悪いのだ、ですね。

  (44)【受身の強身】=彼らが「萬事に、悠々不迫、平氣の平左衞門」であり、「呑氣」「無頓着」「無遠慮」であることには、「腹の立程、感心致し候」。

 

 

たとえば「日本人は、栗の剌殼を剥かねは安心」できないが、「支那人は、自ら發けて、栗實かころけ落つるを、拾ふ者に候」。

 

 

つまりは「自然の成行を待」つ。一見すれば受け身のようではあるが、それが結局は「強身」となる。これを言い換えるなら、忖度抜きの面従腹背ということ。

 (45)【時間を無視して、時間を利用す】=政治であれ経済であれ、凡そ一切の交渉・取引において彼らが持つ最も有力で効果的な武器は、「呑氣の一事に候」。

 

 

時間の観念が無いからこそ、交渉相手が焦ろうが怒ろうが全く無頓着でいられる。

 

 

時はカネなりという格言は、彼らにとっては全くの無意味。時はカネであることを理解しようとしない彼らだが、「之を利用するの道を、殆んと先天的に解し」ている。

 

 

それゆえに「?巧なる獨逸人さへも、彼等には往々氣根負けすること」がある。

  ここで時間を無視して時間を利用した例を示しておきたい。
 先ずは共産党が革命の聖地と喧伝する延安でのこと。

 

 

1930年代後半から毛沢東らは同地で劣勢挽回を目指したわけだが、当時の極貧の延安で腕時計を持っているのは限られた共産党幹部だけ。

 

 

いわば幹部は時計によって延安の時間を支配していた。
まさに人民の時間を無視し、自らが設定した時間を利用することで、支配地域を広げていった。

 毛沢東は昼夜反対の生活を好んだらしい。

 

 

深夜に起床して、劉少奇だろうが周恩来だろうが、勝手気ままに呼びつける。

 

 

この生活ぶりは建国以後も変わらなかった。まさに他人の時間を無視して、自らの時間を利用することで権力を強化させたのである。

 50年代末から60年代中期まで続いた「中ソ論争」は、中国側の公式見解では中国の圧勝に終わっている。

 

 

毛沢東によってモスクワに送り込まれた?小平が、ソ連共産党の理論指導者のスースロフを完膚なきまでに論破したからだ。だが、あるいはヒョッとして、スースロフが仕掛ける論争を「呑氣の一事」で柳に風と受け流す。

 

 

!)小平の「呑氣の一事」にスースロフが「氣根負け」したからではなかろうか。いや、キッとそうだ。

 そういえば明治29(1896)年に故郷・熊本の貧乏百姓を引き連れ入植のためにシャムに赴いた宮崎滔天は、バンコクでの体験を「一気呵成の業は我人民の得意ならんなれども、此熱帯国にて、急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の氣根には中々及ぶ可からず」と綴っていたっけ。

尖閣問題、南シナ海問題、一帯一路、AIIB・・・「呑氣の一事」には注意の上にも要注意。目には目を、歯には歯を、多弁には多弁を、無駄口には無駄口を、ヘリクツにはヘリクツを、そして何よりも無頓着には無頓着を、デス。
《QED》
    ◇○▽ヒ□◎◎イ○◎○ズ○○□ミ□◇◇  

 

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