一点を見つめて | 学生団体S.A.L. Official blog

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あけましておめでとうございます

今年もS.A.L.をよろしくお願いいたします


少し長くなりますが
夏に行きました山口県上関町祝島を訪れた際のことを綴らせていただきます



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 太陽が沈み、夜になると対岸にポツンと光る一点を見つめ続ける女性がいた。その女性の名は石田ミチオさん(偽名)。私は、今年の8月4日、5日に瀬戸内海に浮かぶ小さな島、山口県上関町祝(いわい)島(じま)にいた。対岸の上関町四代田ノ浦に中国電力は、上関原子力発電所を建設予定中だ。祝島は、それへの根強い反対運動で巷に知られる島である。最盛期には5000人いたとされた人口も、急速な過疎化が進み、現在では人口約500人。そして、それに伴い65歳以上が69%以上を占める。これは2010年6月のデータであり、今後も過疎化と少子高齢化が深刻に進むことは間違いないだろう。人口の多数を占める老人たち。石田ミチオさんはその中の一人である。彼女は推し量るに年齢は70歳前後である。この祝島の対岸4キロにあたる田ノ浦に、上関原子力発電所建設計画が持ち上がったのは1982年。島民の約9割が反対を表明し、彼女は30年間一貫して反対を貫いてきた。




 「外の人は『いいこと』しか知らんよ」。宿も決まらず路頭に迷っていた私と友人に彼女は語りかける。時間が経つにつれ、彼女が言ったその言葉の意味は、私に重みを増して痛感させていった。「今の祝(いわい)島(しま)があるのは、不甲斐ないが中電さんのおかげじゃけえ」。私たちの目の前にあるテトラポット。そして、遠くに見える水のタンクも全て、中国電力が祝島に寄付という形で送ったものだった。600~700万もする渇水時に必要な水は、中国電力が買って持ってくる。去年3回も渇水は起こったという。電気とは関係のない、生活に関わるものへの援助は滞ることはない。そして、この援助なしに生きていく力はこの島にはない。





中国電力を中電さんとよぶ彼女は、その恩恵に隠れた複雑な仕組みへと話題を変えた。賛成派と反対派。ある問題を議論する上で、この一般的な二極化は常だろう。しかし、原子力発電所という問題に対してのこの島での分裂は異なった。反対派は二分され、2つの反対派が生まれたのだ。3つの組織は、それぞれ中国電力からの恩恵を受けつつ、互いに対立し合った。そして、島という小さなコミュニティならではの問題を生じた。「村八分」という。賛成派の個人には、数千万の寄付が与えられる。対して、反対派には島全体への寄付として、数億単位の金が島に潤いを与え、心の揺さぶりをかける。反対派を二分した要因はその金だった。島の深く儚い憎しみと混乱は、金をもとにした村八分による傷痕だ。金をもらえるほど受け取って、島をよくしようとする多数の反対派。一方、一切受け取るべきでないとする少数の反対派。そして、人口の1割という少数の賛成派。2つの少数派は、多数派によって村八分を受けた。そう語ってくれた彼女も村八分の犠牲者の一人だった。その影響は自身だけでなく、彼女の息子にまでも及んだ。祝島で仕事をさせてもらえなかったのだった。証拠はないものの、明らかに村八分の影響としか言いようがないという。それに思い悩み、彼女は6年間ウツ病に苦しんだそうだ。






 中国電力に話を持ち込まれる前までは、至って平穏な人間関係が形成されていた祝島。声を落としながら彼女は言った。「大樹の陰に」。祝島の権力者には、金も人も集まる。疎外されることを恐れて、自らの意見を押し殺さなければならない環境があることは否めない。祝島の対岸の上関町では、65:35で賛成派が多数を占める。ここでもまた、多数派による少数派への村八分が行われているそうだ。村八分という言葉にすら縁のない私に、彼女の話は混乱を呼ぶ。「今さらお金をもらったら30年間のバカを見る。私は沈みかけてる船だから、最後までツッパるよ」。反対運動に彼女の費やしてきた時間を思うと、言葉の重みは何倍にも増す。昔、約300人で行った時もあったという30年間毎週行われてきた反原発デモも、今では高齢化の影響で60人足らず。そのうち、祝島出身でない人が半数。遠く対岸に光る一点を見つめながら、感慨深く呟くように彼女は最後に言った。「あの原発が、中電さんがいなかったら、祝島は第二の夕張じゃけえ」。





直接金を受け取ることはなかった。だが、30年間祝島の変化を目の当たりにし続けてきた彼女の、中国電力からの恩恵に対する感謝と歯がゆさが伝わってきた。反対派がいなかったら、ここまで金を寄付されることはない。そこを利用し戦い続け、祝島の息を繋ぎとめてきた多数の反対派の人々。そして、その手段を否定した彼女ら。しかし、賛成派を含め誰もが祝島のためにと考えたことは言うまでもない。小さなコミュニティだからこそ生まれた村八分という悲話。どの原発建設予定地でもこのようなことが起こっているのだろうか。私は外の者として彼女の言うとおり、『いいこと』しか知らなかったのだった。逆に私たちが外の者だからこそ、彼女は小さな島の複雑に絡み合った内情を教えてくれたのかもしれない。テレビ、新聞、映画など様々なメディアで祝島のことは知ることができる。しかし、私が聞いたこの話を知ることは難しいだろう。これを他人に話すことを拒んだ彼女にこの場を借りて謝りたい。しかし、伝えられるべき情報が曲解され、封印されることは、それこそ彼女の反原発運動にかけた長い月日を無駄にしてしまう。8月6日の平和祈念式典に出席するため広島へと向かう翌朝、彼女に別れを告げるときに握手した。合わさった手と手が、対岸の上関原子力発電所と重なる。彼女の生きてきた証として刻まれた手のしわが、常に大樹の陰に隠れようとする私の心をくすぐった。




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【広報局局長:瀬谷健介】