colaboの「夜の街歩きスタディーツアー」&報告会① の記事の続きです


お話を聞いてから自分で注意して見ながら街を歩いてみると、実は街の中には女の子に声をかけるスカウトの人がいるということも気づいてきます。
街中にはところどころにホストクラブや風俗などの「高給アルバイト」の紹介のあるフリーペーパーが置いてあるので、家に帰れないからすぐに仕事をしてひとまずのお金を得たい人がすぐ手に取れるようになっています。
そして街中にはところどころにコインロッカーがあります。家出をしてきた子はコインロッカーに荷物を入れているから。需要があるから、よく見ていると街の中にちょいちょいコインロッカーがあるのです。
駅でもない、居酒屋や風俗店が雑然とある繁華街にちょいちょいコインロッカーがあるというのも考えてみれば不思議なことなのに、こうした状況を聞いてみるまで私は全然気づいていなかったことにも衝撃を受けました。


このような繁華街を歩きながら女の子たちの取り巻く環境を見て、そして私自身の人生を振り返ってみて改めて思うのは、私も(そしておそらくほかの多くの人も)こどもの頃から性被害の危険にさらされ続けている社会であるということです。
その子を本気で被害から守ろうという大人がいなければ、あっという間に巻き込まれてしまう社会だと思います。

私は小学生から高校生くらいまではよく痴漢の被害にあっていたし、大学生、社会人と進む中では今度は言葉を中心としたセクシュアルハラスメントの被害にあってきた経験があります。
「この程度のことは嫌でも我慢すれば済むことなんじゃないか」と言われたり思わされたりする経験もしながら、「でも本当にそうだろうか」と、女性に起こる性被害や女性の人権について学ぶ中で、「やはり、被害者が我慢して済ませるべき問題ではない」と私は思えるようになったけれど、それでも性的に不快なことを言われたりされたりしたときに明確に「それは不快だ」と言えるようになったのはほんのこの数年だし、それは議員になってからも何度も性的侵害を受けそうな不快な経験を繰り返しながら最近になってようやくだいぶ自分を守るすべを身につけられてきたように思います。


もっと小さいうち、若いうちは危険を未然にキャッチする力もまだ十分でないですから、自分自身で明確に自分を守ることはできないので、「自己効力感」を失った感じがして余計に傷つくのですが、私の場合は小さいうちは物理的に家に逃げ帰ることでそこをリカバリーできていたのだと思います。
ただうちの母は「被害にあうのはぼんやりしているあなたが悪いのよ」と言うような、典型的に二次被害を与えているタイプの人だったし、私に対する依存が強い人だったので、私が19歳の時に亡くなった母がもう少し長生きしていたら、私も「家は逃げ場所・居場所にならない」と思うようになっていたかもしれませんが。
それでもなんとかやってこられたのは、そのときどきで支えてくれる友人や周りの大人がいたり、「つらい思いをするのは自分のせいではない」という気持ちの土壌となる情報を得られるきっかけがあったりしたからだと思います。
こうした縁を得られるかどうかは本当に運でもあるとも思います。私と母の関係を思い起こしても、ほんとにしみじみ思います。

若くて人生経験もまだ少なく、辛いことから身を守るすべをまだ身につけていない人につけ込んでくる大人(それは性的なことだけではなくて、色々な面で)は残念ながら私たちの周りにもたくさんいます。
そうした搾取や攻撃の被害にあったときに人的サポートや情報がなく、立ち直れない打撃を負って自分の存在自体を肯定できないところまでになってしまうことは、ちょっとしたタイミングで誰にでも起こりうるのではないでしょうか。 

まだ10代にもなっていないような子までもがその渦中に巻き込まれてリカバリーできない状態に置かれている現状を見過ごしてはいけないと思います。

そして、私が小中高校生だったころを振り返ると、私の級友にも本当はつらい気持ちを抱えた子がいたかもしれない、とも思います。でも当時の私にはそのことに気づくアンテナがまだなかったから、友人たちに対して何もできなかったということを心の痛みとともに感じます。だから今からでも私にも何かできないかと思います。


colaboの「夜の街歩きスタディーツアー」&報告会③ に続きます)