『「酸付加塩」の謎を追う』からの続きです。
新しい資料はすでに検索しましたから、「SEOと海外の国公立デジタルアーカイブ」で取り上げた各国のアーカイブで、古い資料を探しました。
すると・・・・。フランスに、ありました。
巨大な学術論文データベースをあれだけ検索して出てこなかったものが、印刷物に載っています。
フランスの『Bulletin de la Société industrielle de Mulhouse』という資料の402ページで、出版年は1894年。古いですね。
La Société Industrielle de Mulhouseは、スイスとの国境に近いフランスの都市ミュルーズを拠点とする業界団体のようなものらしく、現在も存在しています(→ウェブサイト)。
その組織のBulletinですから、一種の会報誌でしょうか。
見つかったのはこの1冊ですが、使用例を確認できましたので、辞書を総当たりです。
結果、『Dictionnaire chimique et technologique des sciences biologiques』という全139ページの薄い辞書に、近いものが出てきました。
こちらは出版年が1988年で著作権上の問題があるため画像は示しませんが、英仏の化学用語辞典で、5ページ目に次のような対訳が載っています。
Acid salt sel acide, hydrogénosel m., sel (d'addition) d'acide |
括弧書きが何を意味するのかは、現時点では不明です。
そして単純にカッコを外して「sel d'addition d'acide」とすると、上に示した「sel d'addition acide」と微妙に形も違います。
ただ、同じ英語に対する訳語として近いものが出ましたので、別の化学辞書もあたってみました。
『ELSEVIER'S DICTIONARY OF CHEMISTRY』という印刷物版辞書の9ページに、英仏西伊独対訳で次のように出ています。
acid salts f. sels acides; e. sales ácidas; i. sali acidi; d. saure Salze
こちらは、hydrogénoselとsel (d'addition) d'acideは掲載がありません。
そして見出し語も訳語も、複数形をとっています。単数にすると
acid salt f. sel acide; e. sal ácida; i. sale acido; d. saures Salz
でしょうか。
少なくともフランス語については、語順と活用の両方の点から、酸=acideが形容詞として使われていることがわかります。
そこで念のため、塩基も引いてみました。47ページです。
basic salts f. sels basiques; e. sales básicas; i. sali basici; d. basische Salze
同じく複数形ですが、フランス語のbasiqueは形容詞として使われています。
英語で名詞の「酸」と「塩基」はacidとbase、形容詞の「酸性」と「塩基性」はacidicとbasicで形が異なるのに対し、フランス語は名詞も形容詞もacideとbasique。
「sel acide」と「sel d'acide」では意味が異なり、それに同じacid saltという英語が対応しています。
ここで、前回WIPOで各国の言語を検索した結果のうち、最も古いものがどの国あるいは企業から出ているかを調べました。
結果は以下のとおりです。(カッコ内の日付は出願日、企業名は出願人です。)
英語「acid addition salt」 GB513891 (1938年1月17日;Du Pont):優先権の基礎出願はなく、英国が第1国出願。 スペイン語「sal de adición de ácido」 ES186272 (1948年12月14日;International Minerals & Chemical Co.) ドイツ語「Säureadditionssalz」 DE2108438 (1971年2月22日;F. Hoffmann-La Roche):優先権の基礎出願は米国。 |
英語とスペイン語が他の言語より昔から公報に確認できました。
そこで英語とスペイン語の使用例がある明細書で、同時期の出願人も分析しています。
英語は Parke Davis & Co. が圧倒的に多く、ほかにEli Lilly、F. Hoffmann-La Roche、Sterling Drug、American Cyanamidなどが目立ちます。
スペイン語は、同じくParke Davis & Co.、F. Hoffmann-La Rocheが目立ちますが、CIBA, S.A.も相当数でみられます。
F. Hoffmann-La RocheとCHBAはスイス企業という具合に、フランス語からの影響が容易に推察できます。
その上、なぜか製薬会社ばかり。
加えて偶然なのか理由があるのかはわかりませんが、冒頭にあげたミュルーズもスイス寄りです。
ついでですから、日本語の「酸付加塩」の使用例が多い出願人も確認しました。
ULTRA Patentで検索すると13,658件ヒットし、上位は上から順にエフ・ホフマン、バイエル、ジャンセン、ファイザー、ロレアルです。
一方J-GLOBALだと5,373件ヒットし、上位の順位と件数は次のとおりです。
エフ・ホフマン−ラロシュアーゲー (331件) ジヤンセン・フアーマシユーチカ・ナームローゼ・フエンノートシヤツプ (197件) ロレアル (174件) ベーリンガーインゲルハイムインターナショナルゲゼルシャフトミットベシュレンクテルハフツング (137件) ノバルティスアクチエンゲゼルシャフト (116件) 花王株式会社 (103件) バイエル・アクチエンゲゼルシヤフト (101件) 東レ株式会社 (95件) 小野薬品工業株式会社 (92件) サノフイ (80件) 大日本製薬株式会社 (79件) サノフイ−アベンテイス (79件) イーライ・リリー・アンド・カンパニー (62件) ハー・ルンドベック・アクチエゼルスカベット (60件) フアイザー・インコーポレイテツド (57件) ノバルティスアーゲー (56件) |
翻訳出願が多く、WIPOで英語とスペイン語の古い公報を検索した際に出ていたホフマンやイーライ・リリーの名前があがっています。
英語、スペイン語ともに多かったParke Davis もファイザーの子会社です。
1位のホフマンがスイス企業、2位のジャンセン(正式表記はヤンセン)はベルギー、3位のロレアルがフランスで、他にもノバルティスはスイス、サノフイはフランスです。
見事に、フランス語が使われる国ばかりですね。そしてやはり、いずれも製薬会社です。
以上の諸点に鑑みて、「酸付加塩」はフランス語に由来する可能性が高いように思います。
ただ、フランス語のsel d'addition acide自体、字面は同じでも文脈によって意味が少しずつ違うように感じられます。
英語でも、出願人や文脈によって少しずつ意味が違うかもしれないということです。
これは、語句単体では意味がはっきりしないということでもあり、常に酸付加塩←→acid addition salt←→sel d'addition acide と翻訳できるとはかぎらない、ということではないでしょうか。
定義がある場合を別にすると、どうやら明細書全体の内容に照らして考える必要がありそうですね。
ここまでわかりましたし、「酸付加塩」の調査はいったん終了といたします。