世界初のアルゴン化合物、報道は? | 特許翻訳 A to Z

特許翻訳 A to Z

1992年5月から、フリーランスで特許翻訳者をしています。

英日対訳 物質名データベースの舞台裏との関連です。

ギリシャ語で「仕事」「労働」を意味する語に否定の接頭辞がついて生まれた名称だとか、不活性を意味する語に由来するとかいった諸説のある、アルゴン。
 


名前のとおり、化学反応がほとんど生じません。
でも、たったひとつだけ、「argon fluorohydride」という化合物が存在します。
CAS番号は、「163731-16-6」です。

『The Disappearing Spoon: And Other True Tales of Madness, Love, and the History of the World from the Periodic Table of the Elements』という非常におもしろい書籍があり、その中に、この物質が発見された経緯が書かれています(p.283)。

『スプーンと元素周期表』として早川書房から邦訳が出ていますので、邦訳から該当箇所を抜粋します。

 

バーレットが一九六二年にキセノン化合物を、一九六三年に初のクリプトン化合物を合成してから三七年もの失意の年月を経て、フィンランドの科学者らが二000年にようやくアルゴン化合物の正しい合成手順を突き止めた。(中略)フィンランドの科学者らはこの芸当を発表した論文に、"A stable argon compound"(ある安定なアルゴン化合物)という、科学論文としては潔いほどわかりやすいタイトルを付けている。単にやったことを発表するだけで十分誇れたのだ。(p.334)


ここで言及された「A stable argon compound」は、『Nature』に掲載されています。

『Nature Chemistry』にも、同じエピソードに触れた記事があります。
→「Argon out of thin air」 
(翻訳者としては首を傾げる訳も混じっていますが、「気配を隠すアルゴン」として邦訳があります。)


このように、当時としてはかなり偉大な発見だったと思われる、「argon fluorohydride」。
日本語の名称が、はっきりしません

たとえば、Wikipediaには「アルゴンフッ素水素化物」とあるのですが、この日本語名称について、検討の経緯が「ノート:アルゴンフッ素水素化物」に残っています。
上記論文の日本語版で使用され、2007年当時に典拠のある唯一の日本語名だということで、「アルゴンフッ素水素化物」に落ち着いたようです。

かたや『面白くて眠れなくなる元素』という書籍の「アルゴン」の項では、「フッ化水素酸アルゴン」が使われています。
Wikipediaのノートで、"なんとなく今の「フッ化水素酸アルゴン」が違うような気がしてなりません"とされている、名称です。

このように、いまひとつ和名がはっきりしないのです。
まあ、シノニムなど複数の和名が存在する物質も多くありますし、これはまだよいのですが・・・。

フィンランドの科学者が発見するまでアルゴンの化合物が知られておらず、argon fluorohydrideが初の化合物なら、世界中で大々的に報道されていても不思議はないはずです。
ところが、日本の報道記事をあたっても、なぜか出てきません。

2007年にウィキペディアで「アルゴンフッ素水素化物」の項目をおこした時点で、ネイチャーの日本語版が「唯一の典拠」だとされていますから、仮に報道されていたとしても物質としての日本語名は使われていない可能性があります。

そこで、G-Searchの新聞雑誌の150紙誌以上を全文横断検索できるデータベースで、「フィンランド」と「アルゴン」という単純なキーワードで検索してみました。
このデータベースには、『化学工業日報』など化学系の媒体も、1980年代のものから収録されています。
結果、22件ヒットするものの、いずれも関係ない内容ばかりです。

なぜ、世界ではじめての(それも唯一の)アルゴン化合物の発見が、日本の報道に出ていないのか?
探し方が悪いだけなのか、それほど大した発見ではないのか、他に理由があるのか・・・。
まさに、「気配を隠す」アルゴン化合物さながらです。

■関連記事
諸外国の新聞を総当たり
「世界初」「唯一」は、事実?
 


インデックスへ