『戦後70年』さがみはら九条の会の決意 | さがみはら九条の会ブログ

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~子供たちに引き継ごう 戦争をしない国を~
かつて軍都だった相模原。敗戦後、それらの施設に進駐した米軍。
今も相模総合補給廠やキャンプ座間の基地強化が図られています。
私たちは憲法をしっかりと守り、日本中に世界中に、力を合わせて平和を発信していきましょう。

「『戦後70年』さがみはら九条の会の決意」を掲載します。


 2015年9月1日発行のさがみはら九条の会ニュース第32号の1ページ~2ページに掲載したもので、私たちの「70年談話」として、決意を述べたものです。

 戦争法(安保法制)が成立した今、この決意を改めて確認し、“子どもたちに引き継ごう 戦争をしない国を 基地のない国を”の活動を、着実に進めていきます!!


 『戦後70年』さがみはら九条の会の決意


戦前から戦後70年まで続く基地のまちの歴史を記憶し、


未来に戦争をしない国の在り方を引き継ごう!

                


軍都化と農地の接収


 1937年、北京近郊の慮溝橋で関東軍が引き起こした軍事衝突を機に、日中戦争が始まった。この年、相模の地に陸軍士官学校と練兵場が設置され、天皇の閲兵のために「行幸道路」が敷設された。天皇はこの地を相武台と名付けた。翌年には、東京第三陸軍病院、相模陸軍造兵廠、陸軍兵器学校と次々と軍事施設がつくられた。陸軍士官学校では、陸軍の幹部を養成し、造兵廠では戦車の部品の製造と修理が行われた。陸軍病院は傷病兵を治療し、再び戦場に送り出す軍事施設であった。文字通り、相模原は、日本軍の中国大陸侵略、さらにはアジア太平洋戦争の中軸の兵站基地となった。 これらの軍事施設の広大な用地確保のために、農民の畑地の買収が行われた。農民は村民大会で反対の声を上げたが、軍部による強制収用のおどしに抵抗しきれず、安い価格で生業の基盤の農地を売り渡さざるをえなかった。


強制連行と強制労働の歴史をもつ相模ダム建設


 相模原地域は台地であり、水資源が乏しい地域だった。軍都に集積される人々の生活基盤の整備として上水道の確保が緊喫の課題となった。京浜工業地帯での軍需産業のための電力と工業用水の確保を目的として相模川河水統制事業が計画され、1939年に相模ダム建設工事が申請され、翌1940年に認可、工事着工された。地元では土地不売同盟がつくられるなど住民の抵抗運動が起きたがこれを押さえ込んで進められた。徴兵による建設労働者不足対策として、学徒動員、朝鮮半島から強制連行された人々、日本軍により捕虜となった中国人兵士が厳重な逃亡監視のもとで、過酷な突貫工事労働に従事させられた。延360万人の作業者のうち朝鮮出身者が6割をしめ、中国人捕虜は287名であったと言われている。83名の労働者が工事現場で命を落とし、この中には中国人23名、朝鮮人18名が含まれていたと 記録されている。

 1945621日、軍需省は「戦局の情勢にかんがみ」この建設工事を停止する通ちょうを発したが、米軍の相模湾上陸作戦に備えて、日本軍部が相模ダムを破壊して、県央地帯を水で押し流してしまうという戦法をとっていたと伝わっている。

 相模ダムは1947年に完成し、神奈川県の重要な水資源として私たちの生存の基盤となっているが、私たちは、侵略戦争遂行の遺産であることを記憶し、伝えていかなければならない。


敗戦後の占領軍による基地接収と恒久化


 815日、天皇はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終結した。1872年徴兵令、1894年日清戦争以来続いた他国の侵略戦争に動員されて戦死した相模原の出身者は1400名前後と推測されている。戦後は、占領軍の駐留下による日本の軍部解体と民主化を柱としてスタートした。194753日、わが国は、九条を柱の1つとする日本国憲法を施行し、軍隊をもたない平和国家としての戦後を歩み出した。

 ところが、1948年朝鮮が南北に分断され、1950年に戦争状態となり、占領政策が大きく転換した。これに伴い、占領軍に接収された相模原地域の日本軍基地は在日米軍基地として恒久化に組み込まれ、現在も米軍キャンプ座間(旧陸軍士官学校)、米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠)、米軍相模住宅地区(旧電信第一連隊)が極東・中東を含むアジア太平洋における米軍の兵站基地・前線司令部として位置づけられている。



ベトナムへの戦車闘争の歴史


 1964年、米軍はトンキン湾事件を仕組んで北ベトナムへの爆撃を開始した。1972430日、ベトナム戦争で破壊されたM48戦車など戦闘車輌が相模総合補給廠に運び込まれ、修理され、再びベトナム人民を殺戮するために搬出されている事実が報道された。ただちに相模原市が、ベトナム戦争と直結した形で、大量の戦車の修理再生のため、基地が使用されることは基地の使用目的に反する行為であり、即時中止するよう強く要求する、と抗議をした。515日、大規模な市民の抗議行動が始まり、520日には西門前に監視センターが設置され、戦車闘争の拠点となった。相模原市及び横浜市は当初市道使用許可を拒絶し、相模総合補給廠から大型トレーラーで運び出されたM48戦車5台が横浜市村雨橋で車輌重量規制の法律と座り込みのたたかいでストップし、引き返しとなった。しかし、9月になり両市長とも日米両政府の圧力のもと突如方針を転換し、市道の使用許可に応じてしまった。そして、118日、警察機動隊が西門ゲート前に座り込みをしていた労働者、市民、学生を強制排除し、ジュラルミンの盾で守られながら、M48戦車が搬出強行された。たたかいは終わったが、米軍と日米両政府を相手にした労働者、市民のたたかいは「流す汗の一滴、一滴は、ベトナム人民の血の一滴を救う。」とたたえられた。


基地を取り戻し、住民福祉に活かす


 戦前の陸軍、戦後の米軍の侵略戦争の兵站の拠点となってきた相模原の基地を取り戻すたたかいが連綿と続いている。東京第三陸軍病院は国立相模原病院に、相模陸軍造兵廠附属の病院は相模更生病院に、陸軍士官学校練兵場は北里大学・相武台団地・相模原公園等に、陸軍兵器学校は麻布大学・大野北中学校・大野北小学校等に、陸軍通信学校は相模女子大学・相模台工業高校、大野南中学校・谷口台小学校等に、相模原陸軍病院は、相模女子大学グリーンホール・伊勢丹等に、陸軍機甲整備学校は、相模原球場・銀河アリーナ・博物館・JAXA等にと、市民の命を守り、生活と経済活動の基盤となり、子どもたちを育み、文化・スポーツを楽しむ場として転換を実現している。


子どもたちに引き継ごう 戦争をしない国を 基地のない国を


 2000年代になり、米軍第1軍団司令部がキャンプ座間につくられ、陸上自衛隊中央即応集団司令部がキャンプ座間に移転した。相模総合補給廠では作戦指揮訓練センターが開始され、米軍と自衛隊の共同訓練が行われている。

 安倍政権は、集団的自衛権行使を中核とする戦争法案を衆議院で強行採決した。九条を破壊する違憲立法に対し、国民各層全体から反対の声と行動が未曾有の規模で生まれ、拡大している。私たちは、戦争をしない国を子どもたちに引き継ぐために、廃案をめざしてたたかい続ける。

 沖縄では、辺野古の海に新基地建設をさせないオール沖縄の歴史的なたたかいかいが続けられている。私たちは、沖縄のたたかいに連帯し、神奈川県の基地縮小・返還に向けたたたかいを続ける。

 戦後70年を迎えるに当たり、私たちは、改めて「河野談話」、「村山談話」を支持し、我が国がおかした侵略の歴史を記憶し直し、この歴史の反省に立った日本国憲法を守り抜き、再び武力による殺し殺される歴史の過ちを繰り返さないために活動をする。           (文責:中野直樹 8.15記)