君島家先代の上顧客シリーズー公開はここだけ超レアな幕末裏★情報 | だれも書かない★ニューヨーク1%未満★

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日本からは見えにくい、知られざるニューヨークやニューヨーカーのこと、たまにプライベートなことを書いています。

こんにちは♪

この日を待っておりました(^ε^)♪




今日からは、わたしのブログの、ある意味ではハイライトです。

というのは、ここからは、正真正銘、あまり見られない資料に基づいた情報を、こちらにご縁あってお越しくださるみなさんとだけ、こっそり、シェアさせていただこうと思っているからです。


さて、さて、君島家先代の上顧客は、ピンポーン♪

澁澤栄一さんのお孫さんだったのです。



さて、この澁澤栄一という人、

生まれは1840年、1931年(昭和6年)にお亡くなりになるまで、

明治維新(1868年)から

近代日本が、次第に軍国主義に方向を定め、勢いをつけはじめるまで、

まさに一発触発の受難を潜り抜け、時代を駆け抜け、

近代日本経済が短期間に目覚しい躍進をするために、

この人なしでは到底成し遂げられなかっただろうというほど、

多くの業績を残されました。

さぁ、ここからよ。

ただの歴史上の人物だった人が、

まるでお知り合いのおじいさんか何かみたいに身近に感じられるのは 
(`∀´)。





この方、わたしがいうのも何だけど、


めっちゃくちゃすごい男(ひと)です。


そして大物は大物でも器が桁外れ。




といっても、彼の生きた時代、幕末というのがまだまだ漠然とした遠い大昔って感じでしょ。

そこで、今日は、わたしの宝物でもある資料をご覧いただきたく思います。




左からー

・若いアメリカ人が明治初期に日本で体験したことが活き活きと書かれた「Young Americans In Japan]。美しいイラストがいっぱい。


・俵屋旅館の書庫で見つけた「Things Japanese]。あまりに面白く、同じ本を入手したくて、やっと古本屋で購入。イギリス人が日本について書いた本。日本は街を歩くと魚の腐ったみたいな匂いがするとか、鹿鳴館で踊るマダムたちをちょっと揶揄ったり。


・「Child life in Japan]-明治時代の子供たちがどんな遊びをしていたのか、すごく楽しい一冊。




みなさんの中には、幕末について書かれた歴史小説などを読み、この時代についてかなりの知識がある方も多いはず。



しかしです。

こちらは、ちょっと目線を変え、

当時の日本に滞在したイギリス人やアメリカ人が日本をどう捕らえ、理解したかというもの。



ブログの目的と同じで、

大好きな日本を海外から俯瞰して見ると、近視眼的な視点では見えなかったものが見えてくるでしょ。


そしてその時代がにわかに、活き活きと感じられる。





これは、


ペリーが浦賀に黒船で乗りつけた数年後である1861年、

キリスト教布教のため日本にやってきたアメリカ人宣教師の妻が、日本の印象について書き残した日記「Glimpses of Old Japan」


これぞ、絶対に手に入らない本。宝物中のお宝です。


夫に「お願いだから優しく扱ってね」といつも懇願されています。




彼女は21歳のお誕生日を、上海を経由して日本にやってくる船の中で迎えます。


ペリーが日本に来た直後だから、航海になんと、5ヶ月もかかっているのよ。




そして、初めての出産も日本で。


この彼女がとても21歳とは思えない知性&胆力、どこででも生き抜くしなやかな力を備えた方。


(詳細は次回♪)



彼女が日記の中で描き出す当時の日本は、

テレビで時代劇を見てたって絶対に知ることのできない、活き活きした、生活のこまごました一片を切り取り、鮮やかにイメージさせてくれるエピソードがいっぱいで、めちゃくちゃ面白い♪


そして知らなかったことがいっぱい。

彼女の滞在は1865年まで、

日本がいよいよ幕末の混乱に突入し、

イギリス人、リチャードソンが薩摩藩主の大名行列中、礼を失した行動をとったという理由で斬り付けられた、「生麦事件 」をきっかけに、政情不安を危惧する政府の要請でアメリカへと帰国します。



そして、このまさに同じ時期に

澁澤栄一は、最後の将軍の弟に同行してパリへと向かいます。



この時代の日本が一体どんなだったのか、

知りたくない?



これをきっちり理解しておかないと、あの時代に洋行し、パリで1年以上も生活した澁澤栄一の、カルチャーショックというものが上手くイメージできないと思うのよ。



わたしは、開国した日本にやってきた西洋人たちが日本について書いた本を蒐集しております。



あのカーネギーさんが人生半ばに世界一周旅行をし、日本に立ち寄ったときのことを書いた旅行記なんかはさすが、視点が面白いです。

カーネギーさんは、日本に対し、大変に敬意を払ってらっしゃるとお見受けする記述がたくさんあります。







こちらは、1897年に発行された15巻からなるJOHN L STODDARD'S LECTURES




インド、エルサレム、セント・ペテルスブルグ(ロシア)、カナダ、スコットランド、日本、中国、パリ、スイス、ノルウェー、ベルギー、ドイツ、ローマ、フローレンス、シシリー、ナポリ、コンスタンティノープル、など当時の主要都市について書かれた貴重な本で、旅行者のバイブルでもあった。写真満載がうれしい。



赤い日本地図の表紙は、1930年代の「Fortune]誌、日本の特集号です。



今、オックスフォード辞書全巻が届くのが楽しみです。






JOHN L STODDARD"S LECTURES3巻目、日本について





本の中から写真を転写。


さて、次回は、ミッショナリーの妻として幕末に日本に滞在したアメリカ人女性が見た日本について、そして、お待ちかね、澁澤栄一の天晴れエピソードをお届けします。

もっともっと写真も公開します。


どうぞ今しばらくのおつきあいを。


そしてここをCLICK! して、次に飛んでください!





リボン・生麦事件の背景


江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主島津茂久(モチヒサ)の父・島津久光の行列が生麦村に差し掛かった折り、前方を横浜在住のイギリス人4人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデイル)が乗馬のまま横切った。

これに怒った一部藩士が斬りかかり、リチャードソン1人が死亡、マーシャルとクラークの2人が負傷した。彼ら4人は無礼を平気で行った訳ではなく、大名行列とすれ違う際に慎重に極力左端を通ろうとしたが、道が狭かった故に図らずも行列の中に馬を誤って進めてしまい、馬自身も興奮のあまり久光の列を乱してしまったのが真相である。

但し彼らの祖国イギリスでは、貴人が馬車や乗馬姿で通る際、道を譲った上に手綱を締め(馬が暴れない様にする)脱帽して片膝を付いて座り敬意を示した上で見送ると云うのが礼儀であり、行列を乱さない様気を使った行動をしたとは云え、乗馬姿で通った行為は、他民族に対し侮辱的で欠礼な振舞いした事は事実であり、彼らの行動が事件の原因と非難されても仕方がないとも言える。

斬り付けられたリチャードソンは中国での滞在が長く、日本の習慣や礼節を理解していなかった模様。
一方、事件が起こる前、島津の行列に遭遇したアメリカ領事館書記官のバンリードは、すぐさま下馬した上、馬を道端に寄せて行列を乱さない様に道を譲り、脱帽して行列に礼を示したといいます。