『レッド・ドラゴン』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『レッド・ドラゴン』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2002年/アメリカ映画/125分
監督:ブレット・ラトナー
出演:アンソニー・ホプキンス/エドワード・ノートン/レイフ・ファインズ/エミリー・ワトソン/フィリップ・シーモア・ホフマン/メアリー=ルイーズ・パーカー/ハーヴェイ・カイテル/アンソニー・ヒールド/フランキー・フェイソン

2003年 第19回 やりすぎ限界映画祭
2003年 ベスト10 第12位:『レッド・ドラゴン』
やりすぎ限界男優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『レッド・ドラゴン』

D.B.G.生涯の映画ベスト10
第3位『レッド・ドラゴン』
(『羊たちの沈黙』『ハンニバル』の全3部作を含めて)



[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界男優賞:アンソニー・ホプキンス


やりすぎ限界男優賞:レイフ・ファインズ


やりすぎ限界男優賞:ハーヴェイ・カイテル


やりすぎ限界男優賞:エドワード・ノートン


[「頭がいい」とは?]




■「捜査資料を提供します
  きっと興味が…」
 「どうしてだね?」
 「犯人より頭がいいことを
  証明する喜びが得られる」
 「私を捕まえた君は
  私より頭がいい
  そう言いたいのか?」
 「とんでもない」
 「逮捕しただろ?」


「頭がいい」にも種類がある。「勉強ができる」「頭がいい」。「動体視力が優れてる」「頭がいい」。「合理的で無駄を省ける」「頭がいい」。「人の気持ちがわかる」「頭がいい」……。自分の価値観で何を「頭がいい」と思うかは人それぞれだが、僕は「人の気持ちがわかる」「頭がいい」人間が一番頭のいい人間だと思う。たとえ「東大」に合格しても、人の気持ちがわからず恨みを買って殺されれば「本末転倒」だからだ。

「戦争」も「殺人事件」も全部人間の「感情」から起きる。「恨み」「嫉妬」「愛」などの「情念」こそが「人間の行動」の起源。僕がこの世で一番怖いことは「人間の恨みを買うこと」。「殺される」危険性がある。僕が「レクター博士」の「人間の行動の客観視」や「極限冷静行動」に強い興味を持つのは、「殺される」「身の危険」を回避するのに最も重要だから。さらには「人の気持ちがわかる」ことで「人に好かれる人間」に到達する方法でもある。

「レクター博士」の持つ「犯罪学」「心理学」「行動科学」の知識こそが、「人の気持ちがわかる」「頭がいい」人間になるための最も重要な知識に思える。「人間の恨みを買うこと」の回避、「人に好かれる人間」への到達には、「人の気持ちがわかる」=「人間を知る」以外方法はない。

[「人の気持ちがわかる」「思いやり」とは?]



「人の気持ちがわかる」「思いやり」とは「相手の身になって物事を考える」こと。「自分がされて嫌なこと」は大体「人間なら誰でも嫌なこと」なはず。「他人のことを考える人間」とは「相手の身になって物事を考える」ことができる人間。

[「客観視」とは?]



■「これで我々が取り乱すか
  あるいは これから学び-
  逮捕の手掛かりにするか」


「自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま」の「主観的なものの見方」対し、「特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」の「客観的なものの見方」が「客観視」。『羊たちの沈黙』での「人間の行動の客観視」は「他人版」の「批判」と、「自分版」の「自己批判」が存在する。

[「自分の行動の客観視」具体的方法]



「映画を見ること」がそもそも「他人の行動の客観視」。だが人間は普段自分で自分の姿を見れない。「自分の行動の客観視」には「想像力」が必要となる。「映画に映ってる自分の姿」を「想像」し、「観客の視点」から「自分の行動」「全て」を「他人からどう見えてるか」「想像」する。



『ターミネーター』は「人間絶滅のためジョンを殺害」しにきた「極限の悪」。「もし」『ターミネータ-2』でサラが「スカイネット絶滅のためダイソンを殺害」してたら、サラはターミネータ-と「同じ」「極限の悪」となった。「他人の行動の客観視」から「ダメな人間の真似をしたら自分もダメな人間になる」という理論。

実は「他人からどう見えてるか」の「自分の行動の客観視」具体的方法は、「他人の行動の客観視」=「批判」だ。「他人の行動の客観視」は同時に「自分版」=「自己批判」となる。まず自分が何かの行動をする前に「想像」すること。もし自分がサラと「同じ」「何かの絶滅のため人間を殺害」したら、自分もターミネータ-と「同じ」「極限の悪」に「観客から見える」という「想像」。この「想像」こそが「自分の行動の客観視」具体的方法だ。

[「人に好かれる人間」「人に嫌われる人間」]



「人に嫌われる人間」の「行動」の真似は「自分も人に嫌われる人間」になるということ。逆に「人に好かれる人間」の「行動」の真似は「自分も人に好かれる人間」になる。「人に好かれる人間」がなぜ好かれるか? 「人に嫌われる人間」がなぜ嫌われるか? を、冷静に「批判」「分析」することが「人間の恨みを買うこと」の回避、「人に好かれる人間」への到達に繋がる。「レクター博士」の「洞察力」が重要となる。



「他人の行動の客観視」=「批判」から、「自分の行動の客観視」=「自己批判」=「想像」の積み重ねで、「極限冷静行動」はさらに「行動範囲」が拡がる。「人に嫌われる人間」の「行動」と「人に好かれる人間」の「行動」と「自分」を、客観的に「比較」することが「自己批判」「分析」となる。「人に嫌われる人間」の「行動」だと理解した時点で徹底的な「修正」を行い「絶対真似しない」。徹底的な「修正」の繰り返しが『ハンニバル』で「レクター博士」が「フェル博士」に成りすませた「真実」に繋がる。

[「人に好かれる人間」の「嘘」を見破れるか?]


■『ハンニバル』より

■「どうする?
  ユダのように臓物を垂らすか
  垂らさないか
  決められないか?
  じゃ 私が決めよう」


「相手の身になって物事を考えること」で「自分がされて嫌なこと」をしなければ「人に好かれる人間」。「自分がされて嫌なこと」したら「人に嫌われる人間」になる。

だがあえて「自分がされて嫌なこと」をしなければならない場合もある。「人に何かを教える」場合など厳しさがなければ伝えられない。また自分が人に嫌われるのが怖くて逃げたいために「本当は叱らねばならない」場合で「叱らない」人間もいる。結果叱らなかったために「技術を習得できなかった」人間は働けなくなり死ぬかもしれない。その場合「叱らなかったこと」が「やさしさ」ではない「残虐な行為」となる。「自分がされて嫌なこと」を「する人間」「しない人間」の「真実」が、「善人」「悪人」かの「嘘」を見破れるか? 見分ける方法も「人間の行動の客観視」以外ない。

「レクター博士」は「自分がされて嫌なこと」をしなければ「人に好かれる人間」になれることを知ってる。「人に好かれる人間」が「全部いい人」だと「油断」すると痛い目に合う。「フェル博士」は「あなたの隣にも潜んでる」。多くの女性が「自分にはやさしくしてくれる男」が「スイッチを押せる男」と見破れない「真実」に繋がる。パッツィ刑事のように「臓物を垂らす」危険を回避するのは自分次第だ。

[「想像力」]




■「すばらしい
  思ってた通り
  君は “超能力者” だ」
 「違います」
 「 “芸術レベルの想像力を
  持った者” という意味だ
  恐怖と嫌悪を感じる相手の
  気持ちをも理解する能力だ」


「俳優」が「殺人犯」の演技をする時、「人間の想像力は何もない無から生まれない」のだとしたら、俳優は本当に人間を殺さなければ「殺人犯の心境を理解する」演技ができないのか? また「人の気持ちがわかる」「思いやり」を「相手の身になって物事を考える」こととしたが、「その先は?」で “核” を追究した場合、「相手の身になって物事を考える」以上もう「答え」はないのか? 「殺人犯の心境を理解する」「相手の身になって物事を考える」ことの “核” こそが「想像力」なのだ。

「殺人犯の心境を理解する」「相手の身になって物事を考える」「自分の行動の客観視」「勉強ができる」「頭がいい」……。「レクター博士」が『羊たちの沈黙』『ハンニバル』『レッド・ドラゴン』の全3部作で徹底的に見せたものの “核” は「想像力」。「人間が人間である理由」。「想像力」なくして人間は人間ではない。「犯罪学」「心理学」「行動科学」も全部「想像力」から生まれた。人間の「偉大」さの「全て」が「想像力」にあることを「レクター博士」は教えてくれた。この「想像力」を「他人のことを考える人間」として使うか、「他人のことを考えない人間」として使うかは自分次第。自分が「どんな人間か」の「信念」「価値観」「倫理観」を問われる。だが「想像力」の使用において「自分が他人にしたことは、いずれ全部自分に返ってくる」ことだけは「絶対忘れてはいけない」。

[「犯罪学」「心理学」「行動科学」を超越した “棲息速度域” の「究極想像力」とは?]



その答えは全てハンニバル・レクター博士が教えてくれる。




『羊たちの沈黙』
『ハンニバル』
『レッド・ドラゴン』

画像 2017年 6月