【注:予め書いておきますが、今回のエントリーは徹底的に言葉遊びです。法解釈に関心のない人には面白くもおかしくもありません。ただ、PKOをめぐる法制度がどうなっているかはこういう論理が背景にあります。】

 

 以前、こういうブログを書きました。戦闘行為と武力紛争という概念が変だという事です。二つの概念整理がどうしても整合的でない説明を政府がしているのです。なので、同ブログにも書いた通り、質問主意書を出しました。

 

【1本目の質問主意書】

十月二十五日付の内閣官房、内閣府、外務省、防衛省による「派遣継続に関する基本的な考え方」の6に以下のような記述がある。

 

「他方、PKO参加五原則については、憲法に合致した活動であることを担保するものであるこの場合、議論すべきは、我が国における、法的な意味における「武力紛争」が発生しているか、であり、具体的には「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるものである戦闘行為」が発生しているかである。(これは憲法との関係であり、その意味において我が国独自の問題である。)」

 

ここでは武力紛争の具体的な定義が「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるものである戦闘行為」とされている。

 

ここで「戦闘行為」の定義である「国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為」を代入してみると、武力紛争の定義は「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるものである、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為」となり全く意味をなさない。

 

問 武力紛争を「戦闘行為」という概念を使わずに定義ありたい。

【引用終】

 

 何故、こんなに拘っているかというと、南スーダンで「戦闘行為」が行われていたり、「武力紛争」がある場合は、PKO五原則に引っ掛かるからです。答弁書は以下のようなものでした。

 

【1本目の主意書答弁】

国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成四年法律第七十九号)上、「武力紛争」を定義した規定はなく、平成二十八年十月二十五日付けで内閣官房、内閣府、外務省及び防衛省が公表した「派遣継続に関する基本的な考え方」の六の記述も、同法上の「武力紛争」の定義を述べたものではないが、政府としては、国家又は国家に準ずる組織の間において生ずる武力を用いた争いが同法上の「武力紛争」に当たると解してきたところであり、当該「武力紛争」の一環として行われる「戦闘行為」は、「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるもの」である。

 

なお、政府としては、一般に、実力を用いた争いが同法上の「武力紛争」に該当するか否かについては、事案の態様、当事者及びその意思等を総合的に勘案して個別具体的に判断すべきものと考えている。

【引用終】
 
 この答弁書のポイントは、私の眼には「『派遣継続に関する基本的な考え方』ペーパーの記述は間違っていました。」という事を認めたようにしか見えません。というのも、「法的な意味における「武力紛争」が発生しているか、であり、具体的には「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるものである戦闘行為」が発生しているか」と書いてあれば、「武力紛争」=「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるものである戦闘行為」と普通は読むでしょう。それがそうではないと言ってきたという事は「間違っていました」という事を認めたようなものです。爾後、私から「武力紛争は定義が確定していないというのが、これまでの言い方だったんだから、そこは注意しないとダメ。あまり言葉遊びをし過ぎないように。」と役所側には伝えました。
 
 一方、駆け付け警護についての実施計画の変更の文書を読んでいたら、「また、変な言葉遊びをやっている。」と言うことに気付きました。日本語英訳を比較してみると、とても変なことに気付きます。それは1.の2パラ目を見ていると、日本語では「武力衝突」とされている部分が英語では「armed conflicts」となっているのです。私の国会審議でも「armed conflict」と一対一で対比される日本語は「武力紛争」だと言っていました。しかし、「武力紛争」と訳した瞬間から、PKO五原則との関係で撤退しなくてはなりません。なので、日本語と英語で対比しないものを当てているわけです。
 
 こういうものが出てくると、どうしても確認せざるを得ません。もう一本主意書を出しました。
 
【2本目の質問主意書】
一 過去五年、政府が作成した外交文書の訳において、「armed conflict(s)」に「武力紛争」以外の言葉を当てたことはあるか。あるのであれば、具体例を挙げられたい。
二 十一月十五日の衆議院安全保障委員会において以下のやり取りがなされた。
○緒方委員 しかし、日本が賛成をしている安保理の決議でも、南スーダンの現状を形容する言葉としてアームドコンフリクトという言葉がたくさん出てきます。
 ということは、そういうものがあるということは、日本として合意をしているということでよろしいですね。日本の定義である武力紛争ではなくて、アームドコンフリクトが今南スーダンに存在をしているということはお認めになりますね。よろしいですか。
○飯島政府参考人 お答え申し上げます。
 国連等の決議におきまして、我が国における武力紛争あるいは戦闘行為等の定義を前提としているわけではございませんので、この場合には、国際社会の一般通念として我が国もこの決議に参加しているということになるかと思います。
○緒方委員 だから、そこは違いがありますねということを聞いています、外務省。
○飯島政府参考人 お答え申し上げます。
 我が国で使っているものと国連における決議との間で同一ではないということは申し上げられるかと思います。
(1)現在、南スーダンでは「armed conflict(s)」は存在していると理解しているか。
(2)同一でないという事は、何が違うのか。
【引用終】
 
【2本目の主意書答弁】
一について
お尋ねの「政府が作成した外交文書の訳」の具体的な範囲が必ずしも明らかではなく、お答えすることは困難である。
 
二の(1)について
お尋ねの「armed conflict(s)」が何を指すのか必ずしも明らかではないが、仮に国際連合安保障理事会決議第二千二百九十号の主文第九項の(e)に記載されている「armed conflict」を指すのであれば、当該決議において必ずしも当該「armed conflict」に関する明確な定義はないものと承知しており、現在の南スーダン共和国で、当該「armed conflict」が存在しているかにつき確定的にお答えすることは困難である。
 
二の(2)について
国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成四年法律第七十九号)上、「武力紛争」を定義した規定はないが、政府としては、一般に、実力を用いた争いが武力紛争に該当するか否かについては、事案の態様、当事者及びその意思等を総合的に勘案して個別具体的に判断すべきものと考えているところ、これまでに南スーダン共和国において発生した事案について、事案の当事者の一方であるマシャール前第一副大統領派は系統立った組織性を有しているとは言えないこと、同派による支配が確立されるに至った領域があるとは言えないこと、さらに、同国政府と同派の双方とも事案の平和的解決を求める意思を有していると考えられること等を総合的に勘案すると、現状においても、国際連合南スーダン共和国ミッションの活動地域において同法上の武力紛争が発生しているとは考えていない。
他方、国際連合安全保障理事会決議第二千二百九十号の主文第九項の(e)に記載されている「armed conflict」が、我が国の同法に基づくこうした考え方を前提とするものとは承知していない。
【引用終】
 
 簡単に言うと、「『armed conflict』が日本も賛成した南スーダン関連の国連安保理決議で使われているし、日本政府が書いた文書でも使われているけど、これは『武力紛争』ではないんですか。それ以外の使い方をしている事がありますか。そして、今、南スーダンには『武力紛争』がありますよね。」という趣旨の事を質問しています。答弁は3パートに分かれています。
 
 まず、「armed conflict」に「武力紛争」という言葉を当てていない文書の存在については逃げました。そんな例は南スーダンPKO以外ではやっていないでしょうから、真正面からは答えられないはずです。逃げるしかないのです。
 
 そして、今、南スーダンに「armed conflict」があるかについては、確定的に答えられないという仰天の答弁でした。国連安保理決議でも使われており、外務省の駆け付け警護の文書でも出てくる「armed conflict」の存在を答弁書で否定するというのは相当に無理があると思いますが、これを認めてしまうと苦しくなるわけですからかなりの強弁をしています。
 
 そして、最後の所は、日本の「武力紛争」という概念という考え方は日本でしか通用しないガラパゴス概念であり、国際社会では通用しないという事を認めています。
 
 相当に長々と書きました。多分、私が何を追っているのかが分からない方が大半だと思います。何故、こんな小難しい議論をしなくてはならないかというと、それは私の責任ではありません。そういう理屈で出来上がっているからです。私がそれに付いて行っているのは、外務省条約課に居たからです。
 
 ただ、ザクッと言うと、私の質問主意書シリーズで明らかになったのは「日本における『武力紛争』という言葉は国際社会では通用しないように出来ている。そのガラパゴス概念を適宜使いこなすことで、南スーダンPKOの派遣根拠は何が起こっても崩れないように論理構成されている。」という事です。