題がちょっとショッキングですね。今日、安全保障委員会で質疑に立ちました(映像はココ)。一部、徹底的に役所の言葉遊びに付き合い、そして、それを詰めた部分があります。私が積極的に言葉遊びを展開したわけではありません。

 

● リスク論

 まずは、自衛隊の南スーダン派遣に対する「リスク論」。正直、何度話しても、政府側のリスク論は情緒的で、検証に耐え得るものではありません。私はリスクの定義である「危害の大きさ(hazard)」×「起こりやすさ(likelihood)」をベースに議論をしています。危害が大きくても、起こりやすさが低ければリスクは小さいでしょうし、逆も然りです。

 

 森羅万象には常に「危害の大きさ」があります。なので、当然駆け付け警護という業務に伴う「危害の大きさ」が出てきます。さすがに「起こりやすさ」がゼロという事はないので、オン・トップで乗ってくるリスクはあるはずです(ゼロで計算するのであれば新規リスクはゼロですが、それこそ安全神話です。)。それを否定することは出来ません。

 

 仮に稲田大臣答弁のように、共同防護のような業務をやる事で既存業務のリスクが低減するのなら、それでいいのです。駆け付け警護で新規に乗ってくるリスクと、既存業務のリスク低減を比較してみて、それで南スーダンPKO全体でリスクが下がるのなら、胸を張ってそう言えばいいのです。しかし、そうではなさそうでした。

 

 私が怖いのは、このリスク論を曖昧にしているところです。答弁を聞きながら、時折、情緒的なものを感じることがあります。先の大戦でのインパール作戦では、食料調達のリスクがありました。司令官であった牟田口中将は牛に運送をやらせて、牛がなくなったらそれを食するという「ジンギスカン作戦」という荒唐無稽な案を考え出し、食料調達のリスクを眼前から消し去りました。結果は御承知の通りです。それと同じレベルの事をやろうとしていると言うつもりは毛頭ないのですが、発想の根本において似たものを感じるのです。

 

 「リスクは高まる。しかし、しっかりと対応する。」、こういう姿勢を何故見せないのかと疑問でなりません。「一+一+一=三のような考え方は取っていない。」、それは私もそうです。だからといって、客観性をすべて反故にしていいわけではありません。

 

● 武力紛争と戦闘行為

 ここが「徹底的な言葉遊び」です。ただ、元々は私がやり始めた言葉遊びではありません。

 

 政府は「戦闘行為」の定義として「国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為」を採用しています。その結果として、南スーダンでは「キール大統領とマシャール元副大統領との戦いは国際的な武力紛争ではない。なので、戦闘行為は無い。なので、PKO五原則は崩れていない。」と言っています。これが端緒です。

 

 一方で、10月25日付の内閣官房、内閣府、外務省、防衛省による「派遣継続に関する基本的考え方」の6に以下のような記述があります。

 

「他方、PKO参加五原則については、憲法に合致した活動であることを担保するものである。この場合、議論すべきは、我が国における、法的な意味における「武力紛争」が発生しているか、であり、
具体的には「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるものである戦闘行為」が発生しているかである。(これは憲法との関係であり、その意味において我が国独自の問題である。)」

 

 ここでは武力紛争の具体的な定義が「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるものである戦闘行為」とされています。

 

 ここで上記の「戦闘行為」の定義を代入してみると、武力紛争の定義は「国家又は国家に準ずる組織の間で行われるものである、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為」となり全く意味をなしません。簡潔に言うと「Aを説明する時にBという用語を使い、Bを説明する時にAという用語を使ってしまうと、全体として定義がループのようになってしまい、意味が分からなくなる。」という事です。

 

 「言葉遊び」に徹底的に付き合った結果として、政府の論理が崩壊しているでしょ、これだと意味が通じないでしょ、という事を聞いていたのですが、最後の最後まで稲田大臣は理解しませんでした。終いには、当方に「質問が混乱している」と言っていましたが、同僚議員は全員「聞かんとしていることはよく分かった。」と言っていました。自分が詰まったら人を誹謗中傷するのは止めた方がいいですね。

 

 「戦闘行為という言葉を使わずに、武力紛争を定義ありたい。」という質問主意書を出したいと思います。それはさすがに政府に課せられた義務でしょう。

 

● 戦闘行為

 上記の論理の流れだと、最後の最後は「What is 戦闘行為?」というのが分からなくなるのです。なので、私からは「では、戦闘行為の英訳は何か。」と問い質しました。予想通り、「combat」だと返ってきました。

 

 しかし、国連の文書等を見ていると、南スーダンの状況を説明するのに「combat」という表現は何度も出てきます。つまり、ここで明らかになるのは、日本の「戦闘行為」と国際社会の「combat」との間には乖離があるという事です。もっと言うと、日本は色々な事を正当化するために、「戦闘行為」という概念に国際的に通用しないものを詰め過ぎてしまっています。日本の概念はある意味ガラパゴス化しているという事です。

 

● 武力紛争

 上記の「戦闘行為」と同じです。「武力紛争」は英語では「armed conflict」です。しかし、国連安保理決議を始めとするありとあらゆる文書で、南スーダンの状況を説明するのに「armed conflict」は出てきます。

 

 「戦闘行為」の所では詰め切れませんでしたが、「武力紛争」の所では「英語で言うarmed conflictと、日本の法制度で言う『武力紛争』とは同一ではない。」という答弁が返ってきました。論理的にはそうならざるを得ないわけですが、そういうガラパゴス化は一度よく見直した方がいいと思います。

 

● 南スーダンの現状

 今年7月に生じた暴力(violence)に関する独立特別調査のサマリーを読んでみたら、色々と衝撃的な表現が出て来ます。
- 危機が生じた(crisis)
- 集中的な戦闘(intense fighting)
- 多くの民間人及び2名のPKO要員の死(death of many civilians, two peace keepers)
- 脆弱な和平合意の崩壊(collapse of the fragile peace agreement)
- 危機は無制限の暴力を首都にもたらした(crisis brought unrestrained violence)
- 戦闘員は破壊と苦悩の痕跡を残した(participating fighters left a trail of destruction and suffering in their wake)
- 国連要員、援助関係者、ローカル・スタッフは、武装兵に奪われ、打ちのめされ、レイプされ、殺された(UN personnel, aid workers and local staff were robbed, beaten, raped and killed by armed soldiers)

 

 これでも武力紛争は無いのかと聞いたら、稲田大臣は「マシャール派は系統だっておらず、支配地域もないので武力紛争は無い。」と答弁します。なので、私から「系統立たず、支配地域を持たない組織が引き起こす危機の度合いが極限まで上がっても、武力紛争は無いという事か。」と聞いたら、答えは「武力紛争ではない」という事でした。爾後、フォローとしてお役所に「大量虐殺が起きていても武力紛争は認定しないという事か。」と聞いたら、答えは「武力紛争ではない。」とのことでした。

 

 言葉遊びからスタートしていますが、我々が普通に解する言葉の意味と大きく異なる事は理解していただけると思います。

 

● 提案(最後にやりたかったこと)

 時間不足でやれませんでしたが、本当は最後に一つ提案をしたかったのです。それは、国連PKOの今後についてです。

 

 「国連PKOの将来」と題する国連事務総長報告において、国連PKOの任務の多用化や複雑化、対処すべき紛争の拡大や激化により、メンバー国の結束が揺らぎ、状況の変化に対処する事が困難になっているといった趣旨のことが言われています。国連の文書を読んでいると、there is little or no peace to keepといった状況での対処の困難性を述べるものもありました。国連のPKO部局の魂の叫びをそこに見て取りました。

 

 安保理非常任理事国はそろそろ終わりますが、日本が主導すべきは、何でもかんでもPKO任せにするのではなく、PKOのスコープをもう一度絞り込み、PKOで対応すべきもの、そうでないものを分ける作業を主導する事ではないかと思うのです。質疑で取り上げた色々な用語の矛盾も、無理に無理を重ねざるを得ないミッションが増えてきているからです。

 

 そういう改革を進めていけば、戦闘行為にしても、武力紛争にしても、通常の理解と大きく異なるような言葉遊びをしなくても済むようになるはずです。そういう思いを述べたかったのですが、時間配分を誤りました。

 

 読んでみて、「所詮言葉遊びじゃないか。」というご批判が多いと思います。その通りです。しかし、その言葉遊びの裏に色々な無理が潜んでいるという事を少しでもご理解いただければと思います。