この問いに対する答弁書が返ってきました。

【答弁】
一及び二について
お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、政府は、御指摘の資料及び答弁書において示されている憲法第九条の解釈に関する従来の政府見解の基本的な論理を維持している。

 最近、こういう答弁が増えてきました。バカにされているような気がして、あまり愉快ではありませんが、それはそれとして受け止めます。

 ちなみに、説明すると政府の論理はこういうことなのです。まずは最近使われている見解を使いながら述べていきます。

【1972年参議院決算委員会提出資料(一部略)】
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。

 この中で「基本的な論理」というのは何かと言えば、政府は「そうだとすれば、」の前までだと考えています。そこまでが論理であって、「そうだとすれば、」以降は、その論理から導き出される結論に過ぎない、ということです。

 それは一つの「分類学」だとは思いますが、かといって、それが「基本的な論理」の唯一の捉え方ではありません。人によっては、文書全体が一つの論理を構成している、と考えることだってできますし、むしろ普通の人はそう思うでしょう。

 実は今回の答弁にもある「基本的な論理」というのは、一般的に通用する用語としてのものではなくて、それ自体、分類上特別な意味を与えているものなのです。上記見解すべてが基本的論理を構成するのではなく、「そうだとすれば、」の前までが基本的な論理というふうに、政府が解釈している、それだけのことです。なので、結論として「集団的自衛権行使は可能」となっているのです。

 したがって、政府の考え方によれば、私が「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない、という部分は基本的な論理の中に入っているか。」という問い自体が、そもそもおかしいのです。「基本的な論理に入るはずがないものを、入るか、と聞かれても困る。」、これが政府の立場です。

 しかし、別にその考え方に乗る必要はありません。その構成自体が一つの解釈に過ぎないわけであって、私はそれを頭で理解はしますが、乗りはしません。

 例えば、本件に詳しくない友人にこの1972年の見解を読んでもらうとしましょう。その上で、私が「この文章の基本的論理に基づいた結果として、集団的自衛権は一定の要件の元で行使可能である。」と言えば、多分、その友人の頭の中は「???」となるでしょう。政府の分類ではそれは可能ですが、一般の人はそこで煙に巻かれます。

 そういうことをしてはいけないのです。それは官僚文学の世界では通用しても、一般社会では通用しないのです。