戦争末期に沖縄での集団自決が軍の強制によるという記述が教科書から落とされたことが大きな問題になっています。


 私は沖縄のことを思うとき、いつも一つの言葉を思い出します。沖縄戦の最終局面で、海軍司令官の太田実中将は「沖縄県民斯く戦へり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と東京に打電し、その後自決しました。私はこの言葉にすべてが凝縮されていると思っています。


 この集団自決削除問題については、何となく安倍総理の従軍慰安婦に対する問題意識と似ているような気がします。かつて書きましたが 、安倍総理は従軍慰安婦について「狭義の強制性はない」、「広義の強制性はある(かもしれない)」という使い分けをしました。これは分かりにくいのですが、安倍総理が言いたかったのは「軍の命令はなかったし、物理的に強制して連れて行った事例はない。まあ、従軍慰安婦を志向するような状況に置いてしまったというようなことはあるかもしれない。」、大体こんな感じでしょう。教唆、誘導的なものは「広義の強制性」の中に含まれたわけですね。


 今回の教科書でも似たようなものを感じます。つまり、軍が命令等のかたちで強制したことはないということになっています。ただ、検定意見を付した方達も教唆、誘導的なことがあったことは否定していないようです。検定意見はこういう理屈で出来ているはずです。


● 命令等の強制はなかった。
● 一方で、自決を選択せざるを得ない方向付けはあった。
● その方向付けは字義上の「強制」とは言えない。
● だから、教科書上の「強制」は落とした。


 「字義上は『強制』はなかった」から「表現を落とす」までは相当な距離があります。百歩譲って、字義上の「強制」は存在しなかったとしても、それはすべての表現を落としていいということではありませんね。当時の時代性を考えれば、教唆、誘導的なものがどのように受け止められたかと言えば、事実上「強制」に限りなく近かったと言えるでしょう。また、沖縄の方が納得できないような教科書にすることにどういう意味があるのか、私にはさっぱり分かりません。


 検定意見は相当程度文部科学省の意見が反映しているようです(まあ、お役所主導の審議会みたいなものでお役所の意に沿わないものなど出てきません)。つまり、文部科学省、そして恐らくはその背後にいた官邸は、一般の人には理解不能な「狭義性」「広義性」の議論をこの沖縄の集団自決にも持ち込んだのでしょう。こういう「狭義性」「広義性」を持ち出して議論を細分化し、そして細分化された中で都合のいい部分にだけライトを当てて、過去の歴史の一側面があたかもすべての真実であるかのような議論はもう勘弁してほしいと、私は心から思います。


 「沖縄県民斯く戦へり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」、この言葉に思いを馳せる時、お役所臭い理屈で沖縄戦の現実を捻じ曲げるような行為がとても小さく見えます。