安倍晋三総理を見ていると、幾つかの特徴的なことに気付きます。何故、そうなっているのかは私に検証する力はないのですが、とても興味深いので書き記しておきます。


● 手続き論がとても好きだ。
 安倍総理は何事にもまず手続きの話をします。手続きがきちんと踏まれているかどうかという点への拘りは大したものです。その際たるものとして、最近話題の「従軍慰安婦」の問題があります。安倍総理は従軍慰安婦の連行に関して、「強制性」があったかどうかという点に異常なまでの執着心を示します。そして、狭義の強制性(日本軍が頭を押さえつけて連れて行った)はなかったが広義の強制性(周囲の環境から行かざるを得ない状況にあった)はあったという理屈を展開しています。ここで言いたいのは「頭を押さえつけて連れて行ったのではなく、ある程度自由意志が機能しうる状態で言ったのだから日本軍は悪くない。ただ、まああえて言えば周囲の環境が行かざるを得ない状況にあったということであればそれはそうかもしれない。ただ、それは日本軍だけに責任を帰せられるものではない。」、まあ、これくらいの感じでしょう。
 「強制性」の有無を手続論に集約するのはおかしいという方もいるかもしれませんが、安倍総理の頭の中では「狭義の強制性はないんだから、手続き上は別に日本軍が責めを負わせられる話じゃないじゃないか。」という考えになってるはずです。
 手続きに不備があるものは中身が正しくてもダメだというのはそのとおりだと思います。手続きを踏まない刑事裁判は絶対に有罪になりませんし、手続きを踏まない会議は成立の有無を疑われます。ここまではいいのですが、手続論の好きな人が陥る(意図的に陥っている)のは「手続に不備がなければOKなのだ」というところに一飛びしてしまうことです。それは全く違います。論理学上もある命題の裏や逆は常に正しくはありません。常に正しいのは対偶のみです。分かりやすく言うと、「手続きに不備があるものはダメだ」という命題があるとすると、常に正しいのは「OKなもの(ダメでないもの)は手続に不備がない」という対偶命題のみです。「手続に不備がなければOKだ」とか「ダメなものは手続に不備がある」という命題は常に成立するとは限りません。
 特に政治は結果責任ですから、すべては結果から演繹していくことが正しいアプローチなのです。手続が正しかったから問題ないのだと言って、その手続の細かいところまで入って説明していくと、多くの人は煙に巻かれた気分になるでしょう。国民の大半は細かい手続を説明されて、仮にそれ自体には納得したとしても心の奥底から納得することはなるはずです。
 もう少し言うと、この広義の強制性、狭義の強制性について日本人以外の人は全く理解できないでしょう(日本人にも無理がありますが)。「そんなことを聞いているんじゃない。従軍慰安婦問題の結果がどうだったかを聞いているのだ。」と人は思うはずです。そういう相手に「いや手続上は狭義の強制性はなくてですね・・・。」と言ったところで、話は全く噛み合わず、結果として相手は激怒するだけです。
 ちなみにこの手続文化、日本の官僚行政では過度に重視されます。手続に入っていって、外部の人を煙に巻く能力については非常に高いです(私も得意です)。そこに、結果を求める国民との乖離が生じるんですけどね。そうそう、話は逸れますが、我が街北九州市の市役所は生活保護の「闇の北九州方式」は「適正に手続を踏んだ」と言い張っていますね。「誰もそんなこと聞いてないんだよ。問題の所在が違うのよ。」と思うのは私だけではないでしょう。「従軍慰安婦連行に狭義の強制性はなかった」と言われた人も同じことを思うはずです。


● 「いわゆる」が多い。
 これだけでは何のことか分からないでしょう。お役所用語で「いわゆる」を使う時は、「そう呼ぶことに対して抵抗や留保があるが、まあ世間一般的にそう呼ばれているんだから、本意ではないがそう呼んでやろう」という含意があります。
 安倍総理については特に歴史認識について、とてもこの「いわゆる」が多いのです。「いわゆる戦争犯罪人」、「いわゆる戦争責任」、「いわゆる従軍慰安婦」、これは本人としては「自分はそんな呼び方をしたくないのだ」というささやかな抵抗なのです。
 普通の人はこれに気付くことはありません。明確には気付かないのですが、漠然とした印象としてどこか回りくどい言い方をしていると感じるはずです。言葉というのは不思議なもので、あれこれと留保の言葉が付けば付くほど聞きづらくなります。そして、お役所が作る文書にはとても多くの留保がつきます。
 安倍総理が何処で身に着けたのかは分かりませんが、こういうお役所言葉だけは非常に長けています。お役人を11年やった私が聞くと、15秒くらいの間に3回くらいは「あっ、またやってる(お役所言葉で話している)」と感じます。役所に勤めていたら、良い課長補佐になれたのではないかと思います。「一国の宰相なんだから、そういう逃げを打つような言葉を使うんじゃなくて、バシッと言い切るところは言い切る果断さが必要じゃないか?」と思うのですが・・・。
 安倍総理の発言、よく聞いてみてください。「いわゆる●●」が出てきたら、「この言葉(●●)を何の留保条件もなしに使うことに抵抗があるんだな。何でだろう?」と考えてみてください。その背景にある思想が良く見えてきます。


● 無謬性
 これは具体的な例を挙げることが難しいのですが、安倍総理は「つじつまが合わない」ことに対する拒否感が強いです。すべての出来事が全体としてつじつまが合っていることを求めます。更につじつまが合わない決断を求められるようになると、スッと後ろに下がって関与の度合いを下げるようになります(これも「自分は深く関与しなかったので、つじつまが合わないことについて責任を深く負わない」というつじつま合わせなのですが)。
 まあ、若干適切ではありませんが、あえて例で挙げれば「復党問題」でしょうか。あの問題に対する安倍総理のアプローチはとても明確なのです。
-- 自分は郵政造反で離党した人達が基本的に好きである。自分の理念に一番近い人たちである。
-- 逆に先の総選挙で当選してきた若手議員達は理念がしっかりしていなくて嫌いだ。
-- できることなら郵政造反組は(既に他党に行った人を除いて、落選組も含め)全員戻してあげたい。
 こういうことです。まあ、先の総選挙で郵政民営化一本で勝ったこととのつじつまは全然合わないのですが、そこは「自分が総理の時にやった選挙じゃないから、その成り行き、結果には過度に拘束されない」ということで内心に整理をつけているはずです。
 そう思っている以上、当然論理の行き着く先は復党なのです。自分と理念の一致している人達は当然自分と一緒にいるべきであるという価値観が一番最初に来て、すべてはその価値観で動くことを求めています。まあ、その後の経緯はあまり説明を要しないでしょうが、安倍総理を見ていると最後まで「自分は(少なくとも自分の中では)理屈は首尾一貫していた。ちょっと苦しいところもあるけど、それとて説明できなくはない。」と思えるようになっているでしょう。そういう姿勢は教育問題、憲法問題、外交問題、すべてにおいて首尾一貫していることを重視しています。
 これ、基本的に良いことだと思うのですが、残念なのはすべてを首尾一貫させるために時に無理をしてでも理屈を合わせようとすることです。「つじつまが合わない」ことへの拒否感が強すぎるために無理な論理のチェーンを作ってしまうわけです。そして無謬性の(狭い)世界を作り出しているのです。小泉総理はちょっと違いました。あまり個々の発言の間の論理的繋がりは重視していなかったように思います。それよりも明確なメッセージを大切にしていました。一国の宰相としてどちらが良いのでしょうか。私は細部でチマチマ論理を展開することで、自己満足的な無謬ワールドを作ることは一国の宰相の仕事ではないと思います。
 ちなみに日本の中央官僚の基本姿勢は「無謬性」です。ローマ教皇も驚くくらい、霞ヶ関では無謬の世界を繰り広げるためにとてつもないエネルギーを使います。お役所が無謬であることを追求するのは当然のことです(それに束縛されすぎて、過ちを過ちと認めない姿勢は問題ですが)。しかし、一国の宰相がそれをマネしてはいけませんね。


 まあ、色々と書きましたが、一言で纏めると「役人臭い」のです。「the 官僚」だった私が言うのですから間違いないでしょう。