デスノエスから | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

先月、東北旅行から帰ってまもない頃、映画『低開発の記憶(メモリアス)』 にまつわる<某ブログ記事>をめぐり、ネット上でさざ波が立ちました。結果的に大波にならなかったし今さら…ですが、エドムンド・デスノエス (『低開発の記憶』の原作者であり、同映画の脚本家)からコメントをもらったので、簡単に事の次第を紹介すると―


 発端は、あの映画の主人公セルヒオの妻ラウラを演じたジョランダ・ファーのブログ 。そこで彼女は、<たくさんのシーンを撮影したのにカットされたこと>や<映画の公開が遅れたこと>、<クレジットから自分の名前が削除されていたこと>を嘆き、その理由はすべて<1967年にキューバを去る申請をし、12月に出国したから>、つまり<キューバを捨てた女優(兼ショーガール)を人々の記憶から葬り去る>政治的意図だと推察しています。(ちなみに彼女はスペイン出身。父がスペイン人で母がドイツ人。9才のとき両親とキューバに亡命) ついでに付け加えると、<キューバ映画で初のヌードシーンを演じた>経緯も明かしています。


私にとって、この出来事がきっかけで彼女のブログを知ったのはプラスでしたが、ネットで交わされる意見が<ヌードシーン>中心だったのは興醒め。個人的には<政治的判断で映画の公開が遅れた>という彼女の推測についてもっと論じられて欲しかったのですが…。 
MARYSOL のキューバ映画修行-Desnoes
でも、もうひとつ良いことがありました。それは、1年近く音沙汰のなかったデスノエスから、Facebookを通じて「メモリアスについて、君に送りたいものがあるからメールをくれ。アドレスをなくした」とメッセージがあったこと。喜び勇んでメールすると、返信に添付されていたのは<先のブログ発言>についてのコメントでした。どうやら色々な人から感想を求められたようで、しっかり4枚(A4・活字大)に渡って見解がまとめられていました。
以下、今後の参考になりそうな部分を断片的に書き留めておきます。
MARYSOL のキューバ映画修行-"Laura"
―≪夫婦の会話の秘密の録音シーン≫には、妻の浅はかさと奥深い感情を表出させる意図があった。ジョランダの演技を大げさでメロドラマチックと評する声もあるが、セルヒオのブルジョア(俗物的な)妻のイメージにピッタリで私は高く評価している。ズタズタにされた女の典型。とりわけ妻をモルモットのように扱う小説家の残酷さを際立たせている。

―『低開発の記憶』が政治的検閲と告発されるのは悲しい。(なぜなら)革命の指導者たちへのおもねりや、彼らが奉じる社会主義リアリズムの嘘が内包する弱点に迎合するようなカットから、最も自由な映画だからだ。最終的な編集は、私の小説からグティエレス・アレアが得たビジョンの作品化であり、何ものにも買収されていない。そして私の視点を占める両義性を強調しているのは確かだ。


―彼女がキューバを去ったとき、名前が(クレジットから)削除されたのは確かで、嘆かわしいことだ。しかし今日ではスクリーンに現れている。


―デイシー・グラナドスは、ばかげた羞恥心からヌードになるのを拒んだが、エスリンダ・ヌニェスとハンナ役の女優はヌードを披露している(ハンナの役は、初め予定していたキューバ人女優が夫の反対にあい、代わりにチェコのスポーツ選手が演じた。夫が妻にヌードシーンを禁じたのは、まさにマチズモによる検閲だ。一方、ハンナはセルヒオの頼りない腕のなかでそそり立った胸をさらしている。)


―ヌードでシャワーに向かうシーンを撮りたいとアレアがジョランダの許しを乞うたのは確かだろう。そこにはシネマ的皮肉がこめられていたはずだ。革命前に検閲でカットされたシーンのひとつに、ブリジット・バルドーが同じシーンを演じた映画があり、間接支配されていた共和国時代の嘘っぽい道徳性を批判したのだ。だが、私の眼から見て、ジョランダの同シーンはあまり意味がなく、審美的にも貧しい。だからカットしたのだと思う。彼女だけでなく、セルヒオとノエミのシーンもいくつもカットされた。セルヒオのエロチックな冒険に過剰な意味をもたせないためである。ハンナと両親のシーンもカットされた。
だからといって、二人が政治的圧力を口実に「すばらしい演技が検閲に引っかかった」とアレアを非難したことはない。


―革命の誤りを指摘する点において私はジョランダに同意する。だが最も悲しむべきは、彼女のシーンが削られたことではなく、彼女が体験した、革命の文化的に行き過ぎた行為である。確かに映画産業を創設し、レサマの滋味豊かな小説「パラディソ」や、エベルト・パディーリャに血の汗を流させた「ゲームの外で」を出版したように、私の小説を不承不承 出版した。だが、最も嘆くべきは、ジョランダと共に多くのスターたちがハバナの素晴らしいナイトショーに終止符を打ったことだ。もし軍国主義的指導部が経済で失敗せず、個人の自由を圧迫しなければ、私もジョランダもまだハバナにいたかもしれない。


―映画や文学より、最大の痛手を被ったのがキューバの音楽だ。セリア・クルス、カチャオ。アフロ・スペイン音楽は我々のアイデンティティの実存的心臓部(ハート)である。フィデルやチェは、芸術と文化について反動的な考えを擁護したが、歌えなかったし、踊ろうとはしなかった。