「卵と壁」(5) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

先日のデスノエスの返事 「私は卵であり、壁だった。壁が『低開発の記憶』を

可能にした」という言葉を読んで、「革命に賛同して“壁”の建造に協力してきた知識人(卵)が、後に、その壁に取り込まれ、圧迫される“ジレンマ”」に

思いが至りました。


ちなみに翌日、デスノエスから「卵と壁は、オルテガの“私は私とその環境である”を言い換えたものだと思う」とのコメントも届きました。


で、私は、アレアの映画作りのことを考えながら、「卵が壁と一体化して操られないために、批判(自浄)装置としてのジャーナリズムの存在意義があるのではないか」と思います。


アレアは常々「キューバでは新聞やマスコミが社会の批判(批評)をしない。だから映画がその役割を果たしているのだ」と語っていました。


『低開発の記憶』の意義は、セルヒオの問いにあるのではないでしょうか。


★お知らせ★

 この夏、韓国でエドムンド・デスノエスの小説『低開発の記憶』が出版されるそうです。

 今頃?という気もしますが・・・

 ちなみに日本では1972年に小田実氏の名訳で出版されています。
     MARYSOL のキューバ映画修行-いやし難い記憶2