「ルネス」の意義 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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キューバ革命の勝利は“ラテンアメリカ文学ブーム”の起爆剤になったと言われますが、ウィリアム・ルイス「60年代キューバにおける文学活動の隆盛は、スペイン語圏の文学発展にめざましい貢献をした」「そのイニシアティブをとったのが〈ルネス〉で、60年代初期のキューバ文学および文化を最も良く表現している。またその特徴の多くが、後の文学現象“ブーム”と結びついている」と書いています。
そして〈ルネス・デ・レボルシオン〉を「他の追随を許さぬ質の高さと世界的評判をもつ、革命が生んだ最初の雑誌であり、かつイスパノアメリカで最も重要な雑誌のひとつ」と評価しています。
(ちなみに同氏いわく“ブーム”の終焉は1971年の〈パディーリャ事件〉)


では〈ルネス〉がどんな雑誌(レボルシオン紙の “文化特集版”/月曜発行)だったのか、K.S.カロル著『カストロの道』(読売新聞社)で見てみましょう―

〈ルネス〉の編集人は非常に若かった。編集長のギリェルモ・カブレラ・インファンテはやっと30歳になったばかりだったし、副編集長のパブロ・アルマンド・フェルナンデスはさらに2歳年下だった。エベルト・パディーリャとホセ・アルバレス・バラガニョも、フェルナンデスと同年だった。この3人は詩人で、完全に革命を支持していた。
 彼らが作った週刊誌は折衷的な性格のもので、そこには、前衛芸術や現代左翼の価値観に関する彼らの関心が、必然的に反映されていた。彼らは、その教養の上からも、西欧で支配的な論調や芸術の潮流に影響されていた。彼らの目から見れば、芸術、革命などに関するトロツキーの著作は、キューバ大衆に知らされる価値のあるものだった。彼らはシュールレアリスムにも大きな関心を寄せ、アンドレ・ブルトンに多くのページをさいていた。しかし、その一方では、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』や、ジョン・リード、マヤコフスキーからイサク・バーベリに至る、ボルシェヴィキ時代の作品が、なおざりにされているわけではなかった。1960年1月8日には、アルベール・カミュの死に衝撃を受けた編集者たちは、全紙をカミュの特集で埋めた。その3週間後には、アナスタス・ミコヤンの訪問を機に、ソ連特集号が発行され、ソ連の映画、演劇、文学などが論じられた。それから一ヶ月経つと、今度はサルトルがキューバを訪れたのを機会に、『イデオロギーと革命』と、編集部とサルトルの長い対談が掲載された。
参考記事:〈http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10108134812.html


〈ルネス〉とエドムンド・デスノエス
〈ルネス〉の存続した期間は1959年3月23日から1961年11月6日までのわずか2年半。にもかかわらず短期間のうちに、たった6ページで始まった第一号が最終号には64ページに増え、発行部数も10万部から25万部に達するなど、その存在は「キューバの文学史上もっとも読まれた重要な(新聞の)文学特集版」となりました。
また〈ルネス〉が扱うテーマは文学に限らず、ジャンルも地域も多様で、幅広い読者層に向けられていました。
ある研究によれば、129冊のルネス(記事数1492)を調べたところ、内容の54.2%が国内問題、文学関係記事は552、政治は331。記名記事(543)を見ると、最も多いのがホセ・アルバレス・バラガニョ(48)、次にビルヒリオ・ピニェラ(35)、他はアントン・アルファッ(27)、ギリェルモ・カブレラ・インファンテ(23)、エドムンド・デスノエス(21)ナタリオ・ガラン、エベルト・パディーリャ(16)他でした。


また〈ルネス〉の母体〈レボルシオン紙〉はテレビ局を有し、番組編成も行っていたので、イグナシオ・ピニェイロのミュージカルやジャズ、出版社と組んで新しい文学や芸術を紹介するなど、テレビを通してキューバの家庭に大きな文化的貢献をしました。


ところが〈ルネス〉が提供する多様で開放的な情報は、旧PSPの共産主義者から見ると「《正常な》」社会主義においては公認されていない」類のもの― ゆえに彼らは懸念と怒りを覚え、このまま事態を放置しておいてはならないと考えたのでした。  ―続く―

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