ネオレアリズモを超えて(1960年代後半) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

フリオ・ガルシア・エスピノサ氏の発言から
60年代になって、我々はネオレアリズモを否定した。
1961年に、ネオレアリズモの父、ザバティーニの脚本で『El joven rebelde(抗う青年)』を撮ったが、他に選択肢がなかったからで、本意ではなかった。
「『ファン・キン・キンの冒険』(1967年)以降、ようやく自分が撮りたい映画を撮れるようになった」と私が常々言うのは、そういう理由からだ。

          ファン・キン・キンの冒険
すでに50年代半ば、イタリアのネオレアリズモは危機を迎えていた。
冷戦の始まりによって、新しい世界を創造する夢は蝕まれつつあった。
しかし60年代のラテンアメリカでは、まだ“人生を変えることができる”と我々は信じていた。

ヨーロッパで、ユートピアが現実に追い越されようとしていた頃、我々の間では、ユートピアが現実を追い抜こうとしていたのだ。


しかも、当時のキューバの現実は、戦後のヨーロッパの状況とはまるで違っていた。
キューバでは、革命のプロセスに直接関与することにより、思考や意識が質的に大変化を遂げていた。


世界的にも、ベトナム、第三世界、ゲリラ、学生運動、ブラックパワーなどの動きが、古くからの問題に新しい答えを投じていた。
また、三大陸連帯会議、後進性に関するフィデルの演説、革命的攻撃、チェが示す模範、物質的刺激の拒否、良心をベースにした価値観の創造など、諸々の事象が、芸術家や知識人であると同時に革命闘士であることを可能にしていた。


我々は、単純で保守的な社会主義リアリズムにはなんの魅力も感じなかった。
当時、映画の世界では、フリー・シネマ、シネ・ベリテ、ヌーベル・ヴァーグ、アントニオーニ、アラン・レネ、ゴダールなど、続々と新しい試みが出現していた。
我々は、それらの内容よりも、映画話法の方に注目した。


1967年に『ファン・キン・キンの冒険』を制作したとき、我々にとってもはや「手法が新しいかどうか」とか、「保守的か前衛的か」など、問題ではなかった。
肝心なのは「芸術」の解釈だった。
我々にとり「芸術」とは、自身に揺さぶりをかけ、自らの安寧を揺るがすことだった。


こうしてキューバ映画は、ネオレアリズモから脱することで、60年代後半、数々の傑作を生み出すのである。
代表作:
『ルシア』(1968年)
『Memorias del subdesarrollo』(1968年):(ブログテーマ『メモリアス』参照)
『Primera carga al machete』(1969年):http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10001401471.html

Marysolより
以上、まだまだ不完全ですが、理論家エスピノサ氏の発言を私なりに要約してみました。

                     『ルシア』のポスター

                 ルシア