これは、3月13日付京都新聞の《天眼》というコラムに、大阪大学総長の鷲田清一センセイが『人生は複線で』という題で書かれたものの一部。
せつないのは、同じ列車に乗っていると勝手に思い込んでいた連れ合いが、じつは同じ速度で隣の列車に乗っていただけのことで、線路は知らないうちに逸れてゆき、気づいたときは列車も見えないほど遠くに隔たっていて、声をかけても届かないといったケースだ。こういうケースは案外多いかもしれない
じぶんはじぶんであると納得のゆく理由、それをアイデンティティーという。アイデンティティーは一つに絞る必要はなく、複数あっていい。というか、複数あったほうがいい。複数あれば、そのうち一つが弱ってきても、あるいは外されても、残りのアイデンティティーを丁寧に生きていれば、「わたし」はたぶんびくともしない。逆に一つのアイデンティティーしかなければ、それが外されれば「わたし」も崩れてしまう。
全文は写せないので要点をまとめると、「一直線でゴールまでたどり着けるものはめったにいなくて、挫折や、軌道修正や、撤退をよぎなくされる。そんなときに必要なのは、〈外〉からの別の眼なのだが、そういう〈複眼〉を一人で磨くのは難しい。自分とは別の生き方、ものの見方をしているひとたちと、どれくらい深くて幅広い付き合いをしているかにかかっているから、複数のネットワークを持ちなさい」ということです。
つい最近経験したことがすっきりと書かれていた
新聞のコラムにタイムリーな《私へのメッセージ》をみつけた
捨てきれないモノを奥の引き出しに納めて、新しいモノを迎えるスペースができたように思う
私は複数のアイデンティティーも複数のネットワークも持っているではないか
まだまだ試練は続くだろうが、何恐れることはない