冒頭。
主人公は記憶をなくしている。
ジャングルのような、虫やら枝やらで歩きにくいところを必死で走っている。
なにかから逃げているらしい。
なにも覚えていないのに、そこから離れなければならないことだけはしっかりとわかっている。
それで、無我夢中で走っている。
奇妙に現実感がなく、まるで他人の夢の中を駆けるように。
こうした悪夢のような物語のはじまりは、貴志佑介のクリムゾンの迷宮
を思い起こさせる。
が、ある意味でこの物語はそうしたホラー小説よりもずっしりと恐ろしい。
それは、リアリティという言葉で表現するのも足りないほどの生々しさだ。
小説という虚構であるはずなのに、ドキュメンタリーよりも現実。
ギンジにしろジェイクにしろ、そのほかの登場人物にしろ、出来事にしろ・・・こんなことがあってもおかしくはない。いや、むしろあったことなんじゃないか?とさえ思う。
ホラーファンタジーのように残虐な描写はない。
化け物も狂人もでてこない。
あるのは等身大の残酷だ。
無知で怠惰で無垢な、若者。
彼らはときに大きくときにうっすらと削り取られていく。
ほんの少し世間知がなかったり、素直すぎたり、感情に流されたりして。
棒倒しの砂がどんどん減っていって、最後は棒が倒れてしまう。
彼らは棒倒しの棒だ。
己を支えている砂が削られていくのを、茫然と、あるいは削られていることにさえ気付かずに、ただ突っ立っている。
ところで、わたしはずいぶん昔、この物語に出てくるような一泊1000円かそこらの宿泊施設にとまったことがある。たしか1500円だったか。素泊まりで泡盛は飲み放題だった。
3段ベッドでサンシンをつま弾く老人がいて、スタッフらしき若い男と少女が物陰で乳繰り合っていた。
壁にはボランティアやなにかの運動やライブやアートやらの雑多なチラシが貼られ、散文や詩などもあった。
宿泊台帳は大学ノート、というのもメタボラ
と同じ。
日本中をバイクで旅しているとかいう男や、あやしげな主人や、長逗留で客だかスタッフだかわからない人々。
当時はあまりにも自分の常識の通じない異世界に迷い込んだ気がして居たたまれなかった。
振り返ってみるとよい思い出だけれど、やっぱりもう一度泊まってみたいとは思わない。
家族離散、雇用難民、偽装請負。追いつめられた僕は、死を覚悟した…その記憶を取り戻したギンジは壮絶な現実と対峙する。一方、新米ホストとなったジェイクは過去の女に翻弄され、破滅の道を歩んでいた。後戻りできない現代の貧困を暴き出す、衝撃のフィクション。