国見八景・第三景「龍雲寺」 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 酒飲みは甘いものが嫌いというのは、世間の常識なの
だろうか。私は酒も甘味も好きである。幼少時からの甘味と
いえば「しへい子平まんじゅう」だろう。
茶の薄皮と、まろやかな餡の味が絶妙で美味い。
 小中学校での祝い事や、敬老的紅白まんじゅうも、
子平まんじゅうの味である。まさに国見の里に根ざした
甘味なのである。店は子平町にあるが、旧町名「伊勢堂下」
と呼ばれた頃から子平まんじゅうだった。町名もまんじゅう
の名も、「寛政の三奇人」と言われた林子平という人物に
由来している。墓所が町内の、曹洞宗金台山龍雲寺に
あるからである。
 龍雲寺は仙台開府から間もない1606(慶長11)年に、
輪王寺9世久山和光和尚の隠居寺として開山したのが始まり
である。ここが林家の菩提寺であった。
林子平友直は、1738(元文3)年6月21日、幕府旗本
620石の岡村源五兵衛良通の次男として、江戸小日向水道町
に生まれた。八代将軍・吉宗の時代である。子平3歳の時、
父が刀傷事件を起こして浪人となり、医者である叔父の、
林従吾に引き取られた。
 子平には6歳年上の姐・なほ奈保がいた。奈保12歳の時、
仙台5代藩主・伊達吉村の侍女になる。やがて吉村の子で
6代藩主・宗村の側室「お清の方」になり、藤五郎
(土井左京亮利置)と、静姫(松江城主・松平出雲守治好室)の
一男一女を産むに至る。子平の兄・ともさと友諒は
150石で仙台藩に召しかかえられ、林家は仙台へ移住する
のである。
 子平は頭脳明敏にして、健脚な旅好きだった。北海道から
九州まで、下駄ばきで闊歩したという。乗馬が得意で、
武芸で精神を磨く好奇心旺盛な侍だった。
 長崎へは3度遊学している。最初は1775(安永4)年の
事で、子平38歳。通詞・松村元綱所蔵の「世界之図」を
書写している。子平はここから国際派へと脱皮する。
この年の前年、前野良沢・杉田玄白による「解体新書」が
刊行されている。
 子平はオランダ人・ロシア人と積極的に交流し、海外情報を
吸収していった。その知識と思想の集大成が、「三国通覧図説」
である。ここで彼は、蝦夷(北海道)・樺太・千島列島は、
日本の領土であると主張した。だがこの主張は誰にも
理解されなかった。当時これらの地域は、不毛の外国と
観るのが常識だった。
もし文句があるならば、大日本史を編纂した水戸黄門氏
にでも言ってほしい。
 三国通覧図説は幕末、フランス語とドイツ語に翻訳される。
アメリカとの外交交渉では、小笠原諸島が日本領である
証拠としてこの本が示された。時代の常識などというものは、
いつの時代でもあまりあてにならないものらしい。
 子平はさらに、「海国兵談(全16巻)」を著す。
彼はここで日本の海防を説き、
砲台を設置し、造艦・操船・練兵を行う海軍の重要性を
説いた。極めて先見的な兵学書だった。
 しかし時代が悪かった。清濁併せ呑む田沼意次政治の
反動として、11代将軍・家斉を補佐したのは、もと
白河藩主の老中・松平定信という厳格・潔癖な人物だった。
彼は朱子学以外の異学を禁じ、言論・風俗を厳しく取り締まっ
た。「白河の 清きに魚のすみかねて もとの濁りの
田沼恋しき」と、狂歌が定信を痛烈に皮肉った。
 海国兵談は板木召し上げ。本人は一切の活動を禁じられて
幽閉の身となった。
「親もなし妻なし子なし板木なし 金もなければ
死にたくもなし」と、六無斎(ろくむさい)と号した子平は、
和歌を唯一の気散じとしながら、1793(寛政5)年6月21
日、56歳で病没した。
 しかし子平の著作は、時代の情勢に呼応して復刻される。
そしてこの書の重要性を認識した人物が、長州(山口県)で
著作を講義することになる。松下村塾の吉田松陰である。
子平は国防の先見者として、伊東博文ら松下村塾出身の
明治政府の元勲らによって尊敬され、名誉を回復される
事になるのである。
 ところで龍雲寺には、もう一人「奇」なる人物の墓がある。
名を細谷十太夫直英という。彼は1844(弘化元)年、
伊達郡(福島県)細谷村に生まれた。
仙台藩大番士で食録は50石。色白の小男ながら、
剣槍弓銃術などの武芸に長じていた。時は幕末・戊辰戦争、
奥州白河小峰城攻防戦。24歳の細谷は、安達・信夫二郡
(福島県)のやくざ衆80名あまりを従えて「衝撃隊」を編成
し、官軍営舎を次々に夜襲した。
 黒装束に太刀という姿から「鴉組」と称され、30余戦
すべてを成功させ、官軍の心胆を寒からしめた。戦いそのもの
は銃の威力に勝る官軍が勝利したが、時の仙台藩主・
伊達慶邦は、鴉組の活躍を愛で、細谷に武一郎の名を与え、
200石を加増した。
 細谷はその後、1877(明治10)年に勃発した西南の役に、
陸軍少尉として参戦。1894(明治27)年の日清戦争にも、
千人長として参戦している。刀と銃弾の修羅場を、幾度も
くぐり抜けてきた根っからの武人だった。
 その細谷が、晩年頭を丸めて龍雲寺の住職になるのである。
彼は林子平をこよなく尊敬していたという。子平が火種と
なり、吉田松陰が点火し、動乱の時代が始まった。
その渦中を、細谷は戦場で生き抜いてきた。戦さゆえ、人を
斬った。その手ごたえは生々しいものだろう。
戦死者の霊よ安らかにと、祈りたくもなるだろう。
細谷は今、龍雲寺の境内で「細谷地蔵」として墓参者に
微笑みかけているのである。

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