国見八景・第二景「南山閣」 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 インターネットで女流詩人と知り合った。彼女は高浜虚子
が好きだと言う。明治時代の俳人の事など、私はほとんど
知らなかった。芭蕉や蕪村を調べていた時だったので、
虚子も少し探ってみた。
 虚子は1874(明治7)年2月、愛媛県松山市に池内清と
して生まれた。
ちょうど一年前、同じ松山市に河東乗五郎が生まれていた。
後に虚子と同級生となり、同じ俳句の道を歩む河東碧梧桐
(へきごどう)である。
 虚子は生涯に20万句もの俳句を生み出した。
「銀河西へ 人は東へ 流れ星」
「悠久を思ひ 銀河を仰ぐべし」と、宇宙を詠むあたり
「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」という芭蕉の句を思い
起こさせる。
 また芭蕉は、「西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、
利休の茶、其の貫道するものは一なり」と、笈の小文で
語っている。表現様式は違っていても、精神の在り様は
ひとつだと。これを虚子は
「芭蕉忌や 遠く宗祇に遡る」と、さらに圧縮して詠っている。
両者五分と五分の力量と観た。
 虚子は1891(明治24)年に、碧梧桐を介して同郷の
先輩・正岡子規と出会う。1867(慶応3)年9月生まれの
子規は、この時24歳。虚子は7歳年下の17歳だった。
 司馬遼太郎はこの正岡子規に、陸軍騎兵隊の秋山好古、
海軍参謀の秋山真之(さねゆき)という、四国・松山が生んだ
三人の人物を軸にして、小説「坂の上の雲」を書いた。
彼は子規に対して、並々ならぬ愛着を抱いていたようだ。
 だが私は子規が苦手だった。脊椎カリエスという病に
冒され、病床7年あまり。35歳の若さで死去するという、
人生の概略程度は知っていた。何とも痛々しく、悩ましい
人生である。それゆえとっつきにくかった。
「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」という、あまりにも
有名な句の作者が子規であることも、俳句の弟子に夏目漱石
がいることも知らなかったのである。
 その子規が、1893(明治26)年7月に、仙台を訪れて
いる。東大を中退し、日本新聞社に入社した頃である。
「松島の風、きさかた象潟の雨に心ひかれ」とある
から、やはり俳聖・芭蕉を意識した旅だったのだろう。
 芭蕉は「おくのほそ道」冒頭で、「松島の月まず心に
かかりて」と旅の動機に触れ、象潟(秋田県由利郡象潟町)に
舟を浮かべて、「松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し」
と対比させている。こうした美しい形容を、実際肌身で体感し
てみたいと思うのも無理はないだろう。
 「みちのくの 涼みに行くや 下駄はいて」と、子規は
開通間もない東北本線の汽車に乗ること12時間。仙台に
到着し、国分町大泉旅館に宿を求めた。
翌日、友人・鮎貝かいえん槐園が住む「南山閣」を訪れた。
「はてしらずの記/7月31日。旧城址の麓より間道を過ぎ、
広瀬川を渡り槐園子を南山閣におとな訪ふ」
 国分町から仙台城(青葉城)大手門へ向かう大橋を渡って、
現在の県立美術館あたりの道を大崎八幡神社方向へ。
神社大鳥居から西へ200m程行くと、荒巻南山を登る
「うなぎ坂」という急坂がある。この細道をえっちらおっちら、
息を切らし汗を流しながら登ってゆくと、雑木林に囲まれた
「南山閣」に着く。現在の住所だと、国見3丁目である。
「閣は山上にあり。川を隔てて青葉山と相対す。青葉山は
即ち城址にして、広瀬川は天然の溝渠(こうきょ)なり。
東に眺望豁然と開きて、仙台の人家樹間に隠現し、太平洋
の碧色空際に模糊たり」と、子規は漢詩の如き美文で
述べている。
 そもそも南山閣とは、仙台藩士・石田家の別荘だった。
明治になり、帰農した石田家に代わって、上山五郎が
入居する。彼は映画俳優・上山草人の父であり、宮城医学校
教授。静山と号し、漢詩をよくした。
 上山と交遊し、南山閣を訪れた者の中に落合直文・
鮎貝槐園兄弟がいる。彼らは1893(明治26)年に、
与謝野鉄幹らとともに「浅香社」をおこし、新短歌運動を
おこした。子規とは、この運動を通して知り合ったのである。
 子規と槐園は、南山閣で詩を語り、歌を語り合った。
「涼しさの はてより出たり 海の月」
太平洋の水平線から昇る、丸く大きな月が目に浮かぶ。
 子規は仙台や塩釜神社、松島に遊び、8月5日作並
から山形方面へと向かった。この後の病床を思うと、
何とも切ない程すがすがしい旅だった。
「秋風や 旅の浮世の 果知らず」
せめてあと30年、芭蕉同様の旅をしたならば、
子規はどんな句を詠んだだろうかと思わずにはいられない。

 上山は「荒月の月」の作詞者として知られる、
地元の詩人・土井晩翠とも交遊があった。土井もまた
南山閣に遊び、処女詩集「天地有情」などの構想
を練ったという。荒城の月は、子規が南山閣を訪れた
5年後の、1898(明治31)年、晩翠28歳時の作である。
「春高楼の花の宴 めぐる盃影さして ちよ千代の松がえ
 枝わけい出でし むかしの光 いまいずこ
 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる
 つるぎに照りそいし むかしの光 いまいずこ」
 子規が「天然の溝渠」と評した広瀬川の断崖。
濃い杜の緑。太平洋に昇る太陽と月。国見の里には、
漢詩的な詩魂がひっそりと息づいているのかもしれない。

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