国見八景・第四景「北山五山」 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 鎌倉五山とは、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺。
京都五山といえば、天龍寺・相国寺・東福寺・建仁寺・万寿寺で、
その上に南禅寺があった。
 五山の由来は祇園精舎・竹林精舎・大林精舎・誓多林精舎・
ならんだ那蘭陀精舎という、天竺(インド)五山にまで遡る。
中国では、径山興聖万寿寺・阿育王山広利寺・大白山天童景徳寺・
北山景徳雲隠寺・南山浄慈報恩光孝寺となる。
 まあ、主要な5つの禅寺といったところだろうか。五山の僧は
漢詩をよくした。ひっくるめて五山文学と言った。仙台藩祖・
伊達政宗も、禅と漢詩の素養を身につけて育った。仙台開府と共に、
青葉城北部の北山丘陵に五山を設けた。
 私が住む所は伊勢堂山中腹だが、北山丘陵はその隣に位置して
いる。五山は全て臨済宗の寺で、遠山覚範禅寺・慈雲山資福禅寺・
無為山東昌禅寺・松蔭山光明禅寺・當牛山満勝禅寺である。

 鎌倉時代の伊達家は、伊達郡桑折(福島県)を本拠にしていた。
初祖とされる朝宗は、満勝禅寺に葬られている。4代政依(まさより)
の頃、東昌・光明・満勝・観音・光福の五寺を、伊達五山とした。
 16代輝宗は、1572(元亀3)年米沢(山形県)の地に資福寺を
再興し、こさい虎哉
そういつ宗乙和尚を招いた。虎哉は美濃国方県郡(岐阜県)の生まれ。
甲斐国(山梨県)で武田信玄の師であった快川紹喜(かいせんしょうき)
の、二甘露門(高弟)の一人だった。快川は織田信長の恵林寺焼き討ち
に際し、「安禅必ずしも山水をもち須いず。心頭を滅却すれば
火も自ら涼し」という名言を残し、炎と共に入寂した傑物である。
 虎哉は輝宗の子・政宗を、6歳の頃から40年あまりの長きに
わたって、禅と学問によって鍛えあげた人生の師であった。
覚範寺は1601(慶長6)年、仙台開府と共に虎哉によって開山された。

 資福禅寺は、別名「あじさい寺」と言われている。山門から本堂まで、
石段の両側を紫陽花が埋め尽くしている。梅雨時の花の盛りに訪れると、
普段は俗塵にまみれている心も、詩情のゆらめきに洗われる事になるだろう。
 また資福禅寺境内には、幹が7つに分かれている、樹齢320年の七香木蓮、
樹齢200年の五葉松、同じく樹齢200年のこうざんようなどの古樹もある。
 東昌禅寺本堂前には、樹齢350年の赤松が2本ある。そこから少し離れた
所に、伊達政宗が仙台城の鬼門除けに植えた、樹齢500年の「マルミ(丸実)
ガヤ」がある。秋の初めになると、今でも多量のカヤの実を落とす。この実は
「御前ガヤ」と称し、政宗も好んで食べたという。むろん私も食べた。なかな
か「渋い」味だった。

 光明禅寺には、支倉六右衛門常長の墓がある。政宗は、当時スペイン(イスパ
ニア)の植民地だったメキシコ(ノビスパニア)との貿易を望み、スペイン国王に
使者を送る事を決した。辛抱強い男がよかろうと、家臣団の中から選ばれたの
が、支倉常長だった。
 1613(慶長18)年9月15日、500トンの木造帆船「サン・ファン・
バプティスタ号」は、仙台領牡鹿半島月の浦を出航。黒潮にのって太平洋を
渡り、北米サンフランシスコ沖からメキシコ、キューバを経て、2年後スペイン
の首都・マドリードに到着した。
 常長は奥州国王の名代として、政宗の書状を国王・フェリーペ三世に手渡し
た。また、王立デスカルサス修道院において、国王臨席のもと、カトリックの
洗礼をうけた。洗礼名フランシスコ。ドン・フィリポ・フランシスコ・ハセク
ラの誕生だった。
 その後常長一行は、フランスのサン・トロペを経てイタリアへ向い、161
5(元和元)年11月3日、ヴァチカン宮殿でローマ法王パウロ五世に謁見した。
遥か東方よりの使者に対して、彼らにはローマ市民権証書が贈られた。
 この頃の日本国内は、大阪冬・夏の陣で豊臣家が滅び、キリシタン禁教令に
よる迫害が、全国規模に拡大しつつあった。京・大阪の宣教師や信徒は、迫害
を逃れて奥州に集まり、政宗も寛大に受け入れていた。
 1616(元和2)年、徳川家康75歳で死去。翌元和3年、常長一行はメキ
シコで、政宗の使者・横井将監と会い、帰国命令をうけた。横井はメキシコで
洗礼をうけ、「ドン・アロンソ・ハーシャルド」となる。
 常長や横井は、フィリピンのマニラに2年間とどまり、1618(元和4)年
8月、ひそかに帰国した。政宗は5年におよぶ常長の労苦を労ったが、幕府の
キリシタン禁教令の圧力には逆らえず、元和6年に至って伊達領内すべての者
に改宗を命じる事になるのである。
 1622(元和8)年7月1日。支倉常長は柴田郡支倉村(宮城県川崎町)で病
没。52歳だった。仙台領のキリシタン信徒は、支倉家を中心にして広まって
ゆくのだが、1640(寛永17)年3月1日、改宗に応じない常長の子・常頼
が切腹して果てた。42歳だった。弟・常道は、キリシタンのまま他国へ逃亡
した。
 常頼の家僕・与五右衛門と妻・きり、常頼の養女・しいな、料理人・大窪
太郎兵衛と妻・せつ、召使い惣四郎、常長と共にローマに行った家僕・勘右
衛門ら、改宗に応じない支倉家の人々は、「釣殺しの刑」と呼ばれる処刑法で
死んでいった。
 光明寺墓地の、木立に囲まれた穏やかなたたずまいの支倉常長の墓所を訪れ
ると、時代の思惑に翻弄され、信仰に殉じた人々の光と影を想い、哀切の情に
包まれるのである。


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