国見八景・第6景「荘厳寺」 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 真保裕一という、エンターテーメント系の作家がいる。
「奪取」という偽札づくりの長編小説は、あまりの面白さの
為、丸二日で読みきってしまった。
映画化された「ホワイトアウト」も同様だった。主人公の
真情に共感し、最後のページ近くで感動の涙がこみあげて
きた。
 その手練の作家が、山本周五郎作「樅の木は残った」は
すごいぞと書いていたので、少し気になった。この小説は、
仙台藩祖・伊達政宗亡き後のお家騒動を扱った内容で、
1970年同名のタイトルでNHKの大河ドラマとなり、
平幹二郎が伊達家の筆頭家老・原田甲斐を演じた。
 当時から大河ドラマのファンであり、小学生ながら
「竜馬がゆく」や「天と地と」をワクワクしながら見て
いた私だったが、「樅の木─」は時代も内容も渋過ぎた。
いわゆる政治の腹芸であり、大人の心理劇だったからだろう。
ゆえに作者の山本周五郎作品も、熱心に読んではいなかった。
 それから30年を経て、地元の資料に目を通していた
時の事。新坂通りの浄土宗荘厳寺という寺に、原田甲斐の
屋敷の門が移築されていると書かれてあった。近所の
ことゆえ、その寺を探す散歩に出た。
 大願寺横丁のゆるやかな坂道を下り、歩く事10分で
目指す荘厳寺に着いた。そして驚いた。寺の敷地内に、
私が通っていた幼稚園があったからだ。私はそれとは
知らずに、黒く古びた原田邸の「逆さ門」を、
幼少時から幾度となくくぐり抜けていたのである。
奇縁だった。
 そもそも伊達騒動は、1660(万治3)年7月18日、
仙台藩3代藩主・伊達綱宗が、「諸事不作法かつ悪事
遊興不行跡のかどにより」幕府から「ひっそく逼塞」
を命じられた事に始まる。この時綱宗21歳。
藩祖・政宗に似た剛毅な性格だったという。
 逼塞とはつまり、藩主を引退して屋敷に引っ込んでいろ
という事である。別に綱宗が乱心したわけではない。
江戸・新吉原の遊郭で、多少盛大に遊女たちと酒宴を張って
いたというだけの事である。水戸光圀はじめ、若い大名・
旗本たちは、当然のように遊郭遊びをしていた。
 幕府は3代将軍・家光の頃までに、肥後熊本の加藤家を
はじめ、蒲生家、京極家など、外様26家、一門・譜代
17家を取り潰してきた。藩主や家臣のちょっとした
不始末が、お家取り潰しの口実に用いられてきた。
 綱宗の遊郭通いも、重臣たちは反対だった。出来れば
幕府に知られたくない。
だが密偵を使って綱宗の一切の言行を報告させ、話に
ある事無い事尾ひれをつけて幕府に報告した男がいる。
伊達政宗の十男・伊達ひょうぶ兵部しょうゆう少輔宗勝
である。つまり綱宗は、彼によって失脚させられたのである。
 伊達兵部は、幕府の老中首座・酒井雅楽頭(うたのかみ)
忠清と、伊達62万石分割の密約を結んでいた。兵部の子・
宗興(むねおき)に30万石。綱宗の妹の夫・立花飛騨守
の子・直茂に15万石。片倉小十郎を直参大名に取り立てて
3万石。残りは綱宗の兄・田村右京宗良(むねよし)にと
いう、具体的な内容だった。綱宗は品川屋敷に隠居し、
2歳の亀千代が伊達62万石を相続した。伊達兵部と
田村右京が、その後見人となった。
 この伊達家分割案は、4代将軍家綱のお側衆・下総関宿
4万石の久世大和守広之から、伊達家重臣・茂庭周防定元
に漏らされる。驚愕した茂庭周防は、妹の夫・原田甲斐
宗輔に相談する事になる。原田家は、伊達家初代・朝宗の
代から伊達家に仕えてきた、宿老の家柄だった。
 原田甲斐は兵部の野望を阻止すべく、あえて兵部の懐に
飛び込む。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というわけで
ある。面従腹背の腹芸は、なかなかわかりにくい。
甲斐の真意を図りかねて、彼のもとを去ってゆく同士も
少なくなかった。
 だが甲斐は、信頼出来る家臣を亀千代の毒見役にして
毒殺から守り、酒井と兵部の間に交わされた密約書を入手
するのである。甲斐は密約書を老中・久世大和守に託した。
 一方幕府は、田村右京と伊達安芸の領地争いに対して
老中評定を開き、藩内不統一を理由にして分割の流れを
つくろうと画策していた。首謀者はむろん、大老になった
酒井雅楽頭である。
 甲斐は分割案を回避し、兵部を排除し、なおかつ酒井ら
幕府の面目を潰さぬようにと、大手下馬先・酒井雅楽頭
屋敷の評定の席において、伊達家重臣・伊達安芸宗重
(57歳)、柴田げき外記とももと朝意(63歳)を刺し、
自らは蜂谷六左衛門可広(よしひろ・58歳)と斬り結んで
相打ちになった事になっている。
 だが甲斐が不意に伊達安芸を刺す事が出来たにせよ、
その後誰も止めず、柴田が抵抗もせず殺されたという状況
にはやや無理がある。屋敷内では皆、脇差だけなのである。
伊達家の重臣たちは、酒井家の家臣たちによって謀殺され、
その罪を甲斐がかぶったという説明のほうが近いように
思える。
 ともあれ原田甲斐は、1671(寛文11)年3月27日、
自ら乱心し悪の汚名を着て、53歳で死んだ。伊達安芸が
死んで藩内不統一の理由が消滅。久世の働きかけもあり、
亀千代と伊達62万石は安泰となった。亀千代は成人後、
名を綱村と改める。1703(元禄16)年に隠居するまでの
26年間、安定した文治政治を行った。
 だが逆臣・原田家に対する処分は過酷だった。
嫡男・原田帯刀(たてわき)宗誠(25歳)、
二男・飯坂仲太郎(23歳)、三男・平渡(ひらど)喜平次
(22歳)、四男・剣持五郎兵衛(20歳)いずれも切腹。
宗誠の子・うねめ采女(4歳)伊織(1歳)は斬首。甲斐の母、
慶月院は終身禁固を申し渡され、自ら30日の絶食を
行って死亡した。
 宿老・原田家は断絶となり、所領の船岡館も取り
壊される事になった。家老の堀内惣左衛門は、船岡館に
火をかけ、原田家の菩提寺・東陽寺で切腹して果てた。
伊達兵部は所領没収のうえ、土佐・山内家にお預けの身と
なり、1679(延宝7)年病没した。その翌年には
4代将軍家綱が没し、酒井雅楽頭は大老職を免じられた。
世は5代将軍綱吉の時代になってゆくのである。
 ふと思う。原田甲斐は、密約書を久世大和守に預けて
死んでいった。そこには自らの命と引き換えにした
「信」があった。そして久世は、その信を果たす。
血なまぐさい政治劇の中で、武士の信義がきらりと光る。

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