国見八景・第8景「芹沢美術館」 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 私の家の向かい側に、東北福祉大学のレンガ色の校舎が、
城の天守閣のようにそびえている。子供の頃、この敷地
への出入りは自由であり、格好の遊び場だった。この
場所からは、仙台市街地はもちろんの事、太平洋の水平線
や沖を航行する船までもを望むことが出来る。
 この東北福祉大学校舎内に、芹沢銈介美術館が開館
したのは、1989(平成元)年6月23日の事だった。
型絵染という技法の染物で、1956(昭和31)年
重要無形文化財保持者(人間国宝)になった芹沢銈介の
長男・長介が、東北福祉大学名誉教授だった事が縁となって
の開館だった。
 芹沢は1895(明治28)年に、静岡市本通り一丁目の
呉服卸小売商・大石角次郎の次男として生まれた。
幼い頃から織物の絵柄に興味があり、美術では梅原龍三郎
、安井曾太郎、岸田劉生、中川一政、陶芸の冨本憲吉、
バーナード・リーチを好み、「白樺」を愛読していた。
 1927(昭和2)年、芹沢は朝鮮を旅して、朝鮮民族
美術館や慶州の仏国寺を訪れた。この旅の途上、彼は
柳宗悦(やなぎむねよし)の論文「工芸の道」を読み、
深く心を動かされた。以来柳宗悦は、芹沢生涯の師に
なるのである。
 柳宗悦は芹沢より6歳年上で、1889(明治22)年
3月21日、東京市麻布
区市兵衛町2―13に、海軍少将・柳ならよし楢悦の三男
として生まれた。父の楢悦は、幕末の頃、勝海舟や榎本
武揚らと共に、長崎の海軍伝習所で造船・測量・航海
術やオランダ語を学んだ人物だった。関流和算を学ぶ一方、
博物学や民俗学にも熱心だった。
 麻布台の屋敷は、現在六本木一丁目・アークヒルズ
(地下鉄南北線・六本木駅)近くにあった。広い庭には、
桃・栗・梨・葡萄・銀杏・蜜柑・無花果・梅・椿・
茶・桑などの樹木が植えられ、苺畑や温室、蓮池があった
という。趣味の料理の為の栽培だった。また楢悦は、庭の
一角に「晩香亭」という庵を設け、茶や
書画を営むという、なかなかの粋人でもあった。
 だが宗悦誕生の年、火災の為蔵書や収蔵品を焼失。
後の宗悦を思うと、なんとも惜しい。さらに3年後の
1891(明治24)年1月24日、楢悦は肺炎の為
あっけなく死んでしまう。宗悦は父の事をほとんど憶えて
いなかった。
 柳邸の近所、麻布区三河台町27に志賀直哉が住んで
いた。宗悦は学習院中等科の頃、6歳年長の志賀と出会い
親友となる。さらに高等科で武者小路実篤や
里見とん弴らと出会い、「白樺」創刊の同人になる。
白樺派と称される文学潮流は、
小説の有島武夫、長与善郎、戯曲の倉田百三、詩の
高村光太郎などが加わる。
 柳は1925(大正14)年に、陶芸家の浜田庄司、
河井寛次郎の3人で、木喰仏(もくじきぶつ)を調査する
旅に出た。木喰僧は多くいるが、この場合、甲斐国
(山梨県)生まれの真言宗の僧・明満五行(1718~
1810)が彫った木彫仏を指す。その旅の途上、柳は
「民衆の民と、工芸の芸で、民芸という言葉はどう
だろうか」と、浜田と河井に言った。二人の賛同を得た
この時から、民芸運動が始まる。
 民芸とは、労働から生まれ、日常で使われているから
こそ美しい「用の美」であり、名も無き民衆の無心から
生まれる美であるという思想を核としている。
そうした思想を集約したのが、芹沢を突き動かした
「工芸の道」という論文であったのだ。
 1926(大正15)年4月1日。柳は「日本民芸
美術館設立趣意書」という小冊子を発刊する。京都市
吉田神楽岡3の柳宗悦、大和国生駒郡安堵村の冨本
憲吉、京都市下京区五条坂の河井寛次郎、栃木県益子町の
浜田庄司が名を連ね、事務として東京市麻布区一ノ橋の
青山二郎が加わっている。
 民芸運動の機関紙「工芸」は、1931(昭和6)年
1月に500部で創刊され、やがて1000部に増刷。
100号までは月刊で、120号まで続いた。
 同じ頃、浜田庄司の陶器に惚れこんだ男がいた。
岡山県倉敷市に大原美術館を設立した、倉敷紡績(現クラレ)
社長・大原孫三郎である。彼は倉敷商工会議所で
開かれた浜田作陶展の民芸座談会で、柳や浜田と会見し、
民芸運動に共鳴した。これを契機として、倉敷で河井
寛次郎展や、新進染色家・芹沢銈介展などが次々
に実現してゆくのである。
 1935(昭和10)年5月。孫三郎は東京・高島屋で
開催されていた、バーナ―ド・リーチ展に足を運んだ。
リーチは香港生まれのイギリス人作陶家で、冨本
憲吉から侘び茶の心や日本美の本質を学んだ、民芸の
同人である。リーチ展の後、孫三郎は千葉県我孫子に
柳宗悦を訪ね、日本民芸館設立資金10万円の提供
を確約した。柳が狂喜したのは言うまでもない。
 その年の暮れ、東京市目黒区駒場861番地の敷地に
日本民芸館建設が開始され、翌年10月に開館の運びと
なった。その後、倉敷にも民芸館がつくられ、
大原美術館別館には、河井寛次郎と彼を師と仰ぐ棟方志功、
浜田庄司、バーナード・リーチ、芹沢銈介、冨本憲吉
などの作品が収蔵された。
 柳宗悦は1961(昭和36)年4月29日、日本民芸館
の茶の間で脳出血の為倒れ、5月3日午前4時02分、
飯田警察病院で息を引き取った。72歳だった。
芹沢銈介は彼の死後20年余を生き、創作を続けた。
民芸運動の精神は、芹沢を師と仰ぐ染織家の志村ふくみ
や、作家の白洲正子らによって受け継がれ、日本美の
華を咲かせ続けている。

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