小説と史実の間 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 吉川英治は1950(昭和25)年に、新平家物語の執筆
に着手。7年の歳月を費やし、1957(昭和32)年3月
に完成させた。作品は歴史小説の金字塔として、今も
広く読み継がれている。
 この長大な物語には、原本が存在する。鎌倉時代前期、
信濃前司行長らによって書かれた「平家物語」。
南北朝時代の作とされる平家物語の異本「源平盛衰記」。
室町時代中期の作とされる「義経記」などである。
新平家物語の骨格は、おおむねこれらの路線を踏襲して
いるわけだが、史実とは思われない部分も多く含まれて
いる。
 新平家物語では少年時代の平清盛を、ひどく貧しい
悪童として描いている。設定としては、そこを振り出しに
して栄華の絶頂を極めたほうが面白いのだが、おそらく
清盛は、巨大貿易商社の跡取りだったに違いない。
 清盛の父・忠盛は、鳥羽上皇の荘園である、
肥前国神埼荘(佐賀県神埼町)を管理していた。
忠盛は有明海に面したこの地を拠点にして日宋私貿易を行い、
巨万の富を築いてゆくのである。
 忠盛は北九州から瀬戸内海にかけての海上物流ルートを
整備し、そこで得た金銀珠玉に綾錦の類を鳥羽院や貴族ら
に贈り、平家躍進の足場を固めていった。
清盛はその後継者として、安芸守(広島県)・播磨守
(兵庫県)・大宰大弐(北九州・大宰府長官)と、ほぼ望み
通りの地域の地位と利権を得る事が出来たのも、忠盛
時代の伏線があったればこそというわけである。
 一方、源義経や背後に控える奥州藤原氏に関しても、
多分に誤解や理解不足がつきまとう。奥州藤原氏は、
現在の東北地方全域から新潟県あたりまでを勢力圏
とし、日本の半分と言われていた大国である。
その国の情報活動と国際貿易活動の一切を、金売りの
吉次という一商人に象徴させる事には、かなり無理がある。
 実際の情報機関としては「平泉第(ひらいずみだい)」と
いう、奥州の京都大使館が初代・清衡の頃から存在した。
場所は「かどで首途八幡宮(京都市上京区智恵光院通
今出川上ル桜井町102)」にあった。長官として、
検非違使左衛門尉・藤原秀清・公澄兄弟の名がある。
 平泉第では、中央貴族や寺社の情勢を探り、必要と
あれば買収による政治工作も行った。また仏師や絵師・
高僧などの人材を求め、平泉に送る役目もあった。
後に鎌倉の頼朝が後白河法皇に対し、奥州追討の院宣を
求めた時、院が頑として拒否した背景にも、平泉第の
影響力があったと思われる。
 平泉は3代秀衡の頃、京を凌ぐ人口15~20万人
だったと思われる。そこには、禅房300余の中尊寺、
禅房500余の毛越寺、観自在王院や無量光院
などの寺がある。僧だけでもかなりの数なのだが、
彼らこそ実質的な情報・貿易活動の担い手だったのだろう。
 彼らを「かんじんひじり勧進聖」と言う。寺は貿易実務
や通訳養成、航海術などを教える学校の機能も有して
いた。舞や芸能も行ったし、薬売りやアメ売りに変じて
諸国を遊行したのも彼らである。また、中尊寺は
天台宗だが、比叡山延暦寺を中心にした天台僧の
情報ネットワークを活用していたという事もある。
 元暦元(1184)年2月22日というから、木曾義仲が
源義経軍に敗れて戦死した翌月。藤原秀衡は上村彦三郎ら
12人を、美濃国石徹白(いとしろ・岐阜県郡上郡白鳥町)
の地に派遣した。ここは長良川上流の山深い高地で、
福井県境も近い。白山参りの東海口として、白山開基僧・
泰澄が開いた白山中居神社がある。
 日吉・白山神社は、平泉の東方鎮守である。秀衡は
ここに虚空蔵菩薩を奉献する為に、上村12人衆を
遣わしたのである。が、それは表向きの事。彼らの
目的は、木曾義仲亡き後の、信越北陸方面の情勢を探る
事にあった。事実彼らは石徹白に社殿を建て、奥美濃に
留まっている。
 歌舞伎十八番の「勧進帳」と言えば、義経・弁慶主従
が鎌倉方の追っ手を逃れ、加賀国安宅関において
富樫左衛門尉と弁慶が丁々発止の問答を繰り広げる物語
である。しかし石川郡の豪族が富樫を名乗るのは、
南北朝以後の事である。
感動的な名場面ながら、フィクションの可能性の方が
高い。
 義経一行が比叡山や吉野・高野山に潜伏した後、
奥州に下るルートには諸説ある。近畿の三関(愛発・
不破・鈴鹿)は、鎌倉方が厳重に固めている。東海道は
陸路も海路も危ない。しかも安宅関を通らずに、越中・
越後方面に抜けられそうなルートが、かろうじて1本
だけある。それが長良川から石徹白を経て、白山参りの
修験の道を行き、庄川を下るルート。ここに秀衡直属の
家臣団がいるというのは、とても偶然とは思えない。
 白山神社は平泉の東方鎮守と書いたが、他にも南方の
祇園社と王子社、西方の北野天神と吉野修験の金峰山寺、
北方の熊野社と稲荷社が鎮守として祀られている。
これが意味する事は、1つは義経の逃走ルートと重なる
事。もう1つは修験は金銀銅鉄や水銀など、山に産する
鉱物を司るという事。奥州藤原の生命線である。
これら天台と修験の裏ネットワークに自在に活用して
いたのが、奥州藤原「日高見国」というわけである。
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