松 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 日本は松のくにであると、「この国のかたち」の中で
司馬遼太郎が述べている。静岡県清水市の名勝地・三保の
松原には、天女が舞い降りたという「羽衣の
松」がある。このように、伝説や歌枕と共に親しまれている
「名のある松」は、全国に数多くある。
 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と言ったのは、
俳聖の松尾芭蕉である。また「野にいで出よ。野から学べ」
と語ったのは、芭蕉と同じ伊賀上野に生まれた、
書家の榊莫山である。莫山先生と芭蕉を尊敬する私は、
それではと、野に出て松から学ぶ事にした。
まっ、粋狂と言うところだろう。

 仙台市の四里程南に、岩沼という旧宿場町がある。
奥州街道(国道4号線)と浜街道(国道6号線)の追分
(分岐点)であり、竹駒神社の門前町でもある。竹駒
神社は日本五大稲荷の1社であり、たけくま武隈稲荷明神
とも言う。創建は平安時代の承和9(842)年と、
かなり古い。うか穀霊のみたま倉稲魂という、難しい
名の農業神を祀っている。
 現在、境内中央にデーンと建つ彫刻だらけの古びた
唐門は、天保13(1842)年の建築だから、元禄時代
に当地を訪れた芭蕉は、これを見ていない。
芭蕉が見たのは「武隈の松」である。
 武隈の松は、竹駒神社境内北側の外郭にある。
根元から二股に分かれている
様子から、「二木の松」の別名がある。
「今はた 千歳のかたちととのほひて、めでたき松の
けしきになん侍りし」と、300年前にこの松を見た
芭蕉が「奥の細道」で、1000年前の姿を偲ばせる
めでたい松だと述べている。
 芭蕉はこの松の事を「歌枕」として知っていた。
たとえば平安時代の漂白歌人・能因法師(988~?)
の歌 ━ 武隈の松はこのたび跡もなし ちとせを
経てや 我は来つらむ(後拾遺和歌集) ━
 能因法師がこの地を訪れたのは、竹駒神社創建の
150年後の事である。この時すでに、武隈の松は古樹・
名木として多くの歌に詠まれ、有名だった。
陸奥守・藤原元善が植え、野火で焼けた後、源満仲や
橘道貞が植え継いできた松だった。
 ところが実際に来てみると、陸奥守・藤原孝義なる者が
木を伐らせ、名取川の橋杭にしてしまって跡形もないじゃ
ないかと、嘆いているのである。かくして藤原孝義は、
松の木一本伐らせたばかりに、1000年後までこうして
語り継がれる悪人になってしまった。

 芭蕉は「古人も多く旅に死せるあり」として、自らも
古人の如く漂白の旅に出ようと、奥の細道冒頭で語った。
その古人とは、能因法師であり西行だった。
芭蕉は芦野の里(栃木県那須郡那須町芦野)の「清水
流るるの柳」の前に立つ。その柳は500年前に、
西行が木陰で涼を求めた柳だった。
「西行もこの場所に立ち、この柳の木陰で涼んだのだ」と、
芭蕉は感激する。500年という時の隔たりを超えて、
ある種の一体感が生まれたのだろう。
 私もまた、芭蕉と300年の時を隔てて、武隈の松の
前に立った。そして、ずっしりと密度の濃い幹に触れて
みた。その瞬間、松の霊気が私の全身を貫いた。
 樹齢100年以上の古樹には、必ず神気・霊格が宿ると
語ったのは、樹木医の草分け・山野忠彦である。松は
総じて瞑想的な樹木だが、奥州の大地にしっかりと根を
張った「武隈の松」は、1000年を1日として生きて
いるような瞑想者だった。私と芭蕉と松と奥州の地霊が、
渾然一体となったような眩暈に襲われた。
 それは言葉として表現出来ない「直覚」だった。
なるほど、松の事は松が教えてくれる。それを体験した
ければ、私同様の「粋狂」で、古樹を探して会いに行き、
手で触れて対話してみるとよい。古樹との間に、親密な
友情が生まれる事だろう。たぶん。

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