青葉城 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 仙台の歴史散歩と題してサイクリングに出かけた。
起点は太白区の愛宕山である。向山4丁目の登り口から、
降りて歩くのが賢明と思われる急坂が100m程続く。
頂上には、江戸初期創建の愛宕神社がある。北側眼下に
広瀬川が流れ、足もとは80~100mの断崖になって
いる。
 仙台の大雑把な地形は、この愛宕山から西は丘陵地帯。
東は肥沃な仙台平野である。陸奥国府・多賀城から利府・
岩切・余目・福室・苦竹・木ノ下・北目・郡山・日辺・
今泉などの水田開発は、少なくとも奈良時代までは
遡る事が出来る。
 1189(文治5)年9月、源頼朝が平泉の奥州藤原氏を
滅ぼした後、仙台平野の支配者は留守氏と国分氏であった。
伊沢家景は陸奥国留守職に任ぜられて多賀城へ。
以後留守を姓として、岩切を本拠にして勢力を拡大させた。
しかし南北朝の頃、奥州探題として下向した吉良貞家と
畠山高国が対立し、畠山に味方した留守氏は岩切合戦に
敗れて没落。吉良に味方した国分氏が勢力を拡大した。
戦国期、両者は宿敵として戦い続けた。
 国分氏とは、奥州遠征軍海道方面(常磐道)総大将・
千葉介常胤の5男・胤通が、宮城郡国分荘(仙台市)を
賜り、郷六に居を構えた事に始まる。郷六とは愛宕山から
西に直線で約7km。青葉山西山麓の低地で、現在は
近くに宮城インターチェンジがある。
 郷六には仙台藩四代藩主・伊達綱村の別荘があり、
青葉城二の丸からの間道が通じていたという。仙台藩
では愛宕山・大年寺山を東端とし、向山丘陵・八木山・
青葉山の山塊群を天然の城塞に見立てて、郷六辺りを
西端とする城郭構想を持っていたらしい。
 胤通はその後、青葉山の「千代城」に移り、国分氏の
祖となった。千代城は伊達政宗入府までの400年間、
国分氏の本拠であった。国分一族には、郷六・森田・
八乙目・北目・南目・朴沢・鶴谷・松森・粟野・古内・
坂本・白石・堀江各氏の名がある。現在の地名にも名を
残す通り、支配地域は七北田川上流域と、広瀬川下流域
を軸にした仙台市全域に及んでいたと思われる。
1587(天正15)年以降は伊達家臣団に組み込まれ、
「国分衆」として仙台開府に際し重要な役割を
担う事になる。
 伊達政宗の叔父・国分彦九郎盛重は、宮城郡国分
小泉村に要害を築いたとある。
愛宕山の東2kmにある、若林区古城(現・宮城刑務所)
辺りである。この周囲が政宗入府以前の町場(国分)だった。
政宗は晩年、ここに若林城を建てて住まう事になる。
 さらに古城から広瀬川を渡った名取郡北目には、
粟野大膳の居城・北目城があった。1591(天正19)年
9月、伊達家は国替えで米沢から岩出山に移った
わけだが、この時北目城には屋代景頼が城主として入った。
 1600(慶長5)年5月、徳川家康は会津の上杉景勝
討伐を命じた。6月14日に大阪を発した伊達政宗は、
中山道から常陸・相馬を経て7月12日に北目城に
入った。そして軍勢を整えるとすぐさま上杉領となって
いた刈田郡の白石城を攻撃。25日に落城させた。
 この時政宗は家康に対し、戦闘報告と共に新城の
築城許可を願い出ている。その候補地は4つあったと
される。第一に石巻・日和山の葛西城跡。後に川村
孫兵衛の北上川付け替えという大土木事業により、
南部藩の盛岡から大崎平野の大穀倉地帯を経て河口の石巻
までの水運が開けるわけだが、そうした交易の利便性
を考慮した、秀吉好みの商都になっていただろう。
 残る3つは仙台平野を視野に入れている。源頼朝が
奥州藤原氏を討つべく大軍を発した時、藤原泰衡が本陣に
した鞭楯(むちたて・宮城野区榴ヶ岡公園)。小高い丘
からは宮城野を一望出来る。政宗はこの地を最も望んで
いたと言われる。もしこの地に平城を築いていれば、
江戸のような運河を張り巡らせた水の都になっていたかも
しれない。
 あと2つは大年寺山(野手口)の茂ヶ崎城跡と、青葉山
の千代城跡である。家康は9月15日に関が原の合戦に
勝利した後、国分氏の千代城再興を許可した。
12月24日、甲牛の吉日を卜して縄張り始めを行い、
政宗は北目城から青葉山の高台64mにある千代城に
入った。
 国分氏が城の名を「千代」としたのは、青葉山に千躰物
を祀るお堂があった為と言われている。政宗は「入りそめし
 国ゆたかなる みきりとや/ちよ千代と限らじ 
せんたいの松」と歌を詠み、お気に入りの唐詩選から
「仙台初めて見る五城楼」の詩を引用して、城と街の名を
「仙台」と改めた。
 1601(慶長6)年1月11日、後藤孫兵衛信康と
川島豊前宗泰を総奉行として普請開始。石垣衆は茂庭
石見延元を奉行として、棟梁に鹿野清左衛門、黒田
八兵衛、能島与右衛門。使用された石は郷六の北・
大石ヶ原や国見峠から採石された安山岩質玄武岩
1万2000個あまり。
 また城下の測量や絵図の作成も同時に行われ、翌年の
2月から5月にかけて、
岩出山城下から家臣や町人の引越しが行われ、名実共に
仙台開府となったのである。
 おっと、すっかり愛宕山に長居してしまった。仙台の
語源となった千躰物のお堂も拝んだ事だし、これから
向山と八木山を登って、青葉山本丸(天守台)を目指すと
しますか。あの有名な伊達政宗騎馬像を見て、名物の
「ずんだシェイク」でも飲もうではないか。

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